村中秀人は息子のひと言でプリンスホテルを退社 国語の教師となり、高校野球界屈指の名将となった (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

 我慢とは、自分の目線を下げる。ノンプロの目線で見ては絶対ダメなんだ──。早く気づけたことで結果につながった。就任3年目の91年、東海大相模高は秋の関東大会で優勝。翌92年春のセンバツ大会では17年ぶりに甲子園出場を果たすと、1回戦で常盤高(福岡)、2回戦で南部高(和歌山)、準々決勝でPL学園高(大阪)、準決勝で天理高(奈良)を破って決勝に進出する。

 最後は帝京高(東京)に2対3と惜敗したが、見事に準優勝を果たした。全国大会で大きな結果が出た途端、有望な選手が集まるようになり、就任から5年間が経とうとしていた頃だ。「どうする? 戻ったらプリンスの監督は用意してあるぞ」と石山から連絡が入った。村中が「もう少し、高校野球をやらせてくれませんか?」と答えると、3年間、延長になった。

【ホテルマンとしても優秀だった】

「感謝しかなかったです。社長の粋な計らいに。それで2年後、95年の春にまた甲子園に行けたんですけど、次の年で8年。だいぶ迷惑かけてるから、『じゃあプリンスに戻るか』と言ったら、小学3年生の息子が『お父さん、ホテルマンになるの? 似合わないよ』なんて言ってきて。『高校野球の監督が似合ってるよ』って言われて『わかった』。そのひと言でしたよ」

 九分九厘、戻るつもりが、翌朝には校長に「プリンス辞めます」と言っていた。そして校長とともにプリンスホテルの社長と面会。社長は「そこまで高校野球は魅力があるのか?」と言いつつ、「村中を東海に獲られた!」と付け加えた。というのも、村中は野球部で主将まで務めながら、営業としても十分な実績を残していた。出向容認の背景にもその実績があった。

 とりわけ、ホテルでの結婚式。自身の人脈を最大限に生かした。たとえば、高校・大学を通じて同僚の原辰徳(元巨人)。ほかのホテルで式を挙げる予定だと知ると、知恵を働かせて赤坂プリンスホテルに変更させた。また、東海大で3学年先輩だった国際武道大監督の岩井美樹。夫人が藤田元司(元巨人)の娘だった縁で、巨人の選手の挙式がほかのホテルから赤プリに変わった。

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