村中秀人は息子のひと言でプリンスホテルを退社 国語の教師となり、高校野球界屈指の名将となった (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

「たとえば、1番、ライト、村中。こいつは3人きょうだいの末っ子。兄、姉がいて、かなり甘やかされて育ったけど、親父が厳しかった。中学、高校とかなり厳しく育てられて、野球部の監督も厳しい。けっこう根性あるから要注意だ、という感じなんです。この人、すごいなと。原監督は相手のデータはほとんど関係なくて、試合の時にしっかりやればいい、という方でしたから」

 そうして87年、村中が主将となって2年目。5年連続で都市対抗に出場したプリンスホテルは、初のベスト4に進出する。ついに念願の優勝も見えてきたところだったが、村中自身、大会終了後に野球人生の転換点に立たされた。母校・東海大相模高野球部の監督就任要請が、大学本部からあったのだ。しかし、その時の村中は断りを入れるしかなかった。

【プリンスからの出向で東海大相模へ】

「キャプテンをやっていて、結婚したばかりで女房が身籠っていて、今は抜け出せませんと。そうしたら1年後にまた要請があって、その時、僕は30歳でコーチ兼任。キャプテンは中島輝士(元日本ハムほか)に代わっていました。家庭的にはもう子どもができていた。高校の監督をやってみたい気持ちもありました。そこで女房に話したら『あなたの好きにしなさいよ』と言われまして」

 早速、石山に相談すると「行って来い!」と即答だった。まして、村中としては退社するつもりが、プリンスからの出向で就任することが認められた。石山曰く「どうせね、高校野球の監督なんて、5年間、甲子園に出なかったらクビになるから。戻ってきてプリンスの監督やれ」とのこと。実際、89年から5年間の出向扱いとなった一方、近い将来のビジョンが描かれていた。

「僕自身、戻るつもりではいたんです。ただ、高校野球の厳しさを知って、簡単には戻れなくなって......。相模の監督になって1年目、2年目と、ノンプロの目で高校生を見てしまって、けっこう叱咤してたんです。『こんなこともできないのか!』という感じで。ノンプロのような野球を高校生がすぐにできるわけがないですよね。それで2年間、甲子園に行けなくて、3年目、グーッと我慢したんです」

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