広島の元エース川口和久が鳥取で農業に励む理由〜カープ入団の経緯と飛び込み営業の思い出 (4ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi
  • 写真●本人提供

── 恵まれた練習環境というわけではなかったんですね。

川口 たしかに、恵まれてはいませんでしたね。で、ようやく大会1カ月前になると尼崎か枚方のスポーツセンターを借りて、半日は会社の仕事、もう半日は練習という生活になります。この時点ではプロというのは遠い世界になっていて、「やっぱりロッテに行けばよかったかな」という後悔もちょっとはありました。でも、そんな思いでいるときに鳥取に戻ってなじみのスポーツ店に顔を出したんです。ここの店主が、当時の広島・古葉竹識(たけし)監督の右腕だった小林正之さんの大学時代の後輩で、古葉さんに紹介してもらうことになったんです。

── その結果、どうなったんですか?

川口 小林さんから古葉さんに話がいって、「あぁ、川口なら知ってるよ」ということで、「じゃあドラフトで獲ってあげるよ」ととんとん拍子で話が進みました。それが社会人2年目の夏だったんですけど、そこからヤル気が出てきましたね。目標が見えたことでトレーニングにも熱が入ったし、試合でも投げれば勝つという感じでしたから。当時の大阪は日本生命、松下電器、住友金属が強くて、その下にデュプロがいたんですけど、そういうチームにも負けなかったですから。

── 目標が定まったことで、すべてが好転したんですね。

川口 そうです。すべてがいいサイクルにハマっていった感じです。四国大会があったんですけど、このときプリンスホテルに入団して話題になっていたデレク・タツノという日系人投手が投げたんです。プロの各チームのスカウトが、デレク・タツノ目当てに見に来ていたんですけど、彼が投げる別の試合で僕が完封したんです。そうしたら、「こいつ誰だ?」って注目されるようになった。で、広島から「あんまり目立ちすぎるな。ケガをしたことにして、もう投げないでほしい」と言われて、そこからは痛みをアピールして、ほとんど投げなくなりました(笑)。

── その結果、1980年ドラフト1位で広島から指名され、いよいよプロとしての第一歩を踏み出すことになりました。

川口 ドラフト当日、僕は会社で普通に事務作業をしていました。そうしたら、倉庫に先輩がやってきて、「川口、ドラフト1位だぞ!」と報告がきました。原辰徳さんのハズレ1位だったけどうれしかったですね。

後編につづく


 この記事に関連する写真を見る川口和久(かわぐち・かずひさ)/1959年7月8日、鳥取県生まれ。鳥取城北高から社会人野球デュプロを経て80年ドラフト1位で広島に入団。左腕から球威のあるストレートと落差の大きいカーブを武器に、3年目の83年に15勝をマーク。86年から6年連続2ケタ勝利をマークするなど、広島のエースとして活躍。94年にFA宣言で巨人に入団するも、4年間で8勝と苦しみ、98年に引退。引退後はコーチ、解説者として活躍。2021年に鳥取に移住し、米づくりに励んでいる

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