元広島のエース川口和久64歳は高木豊への故意死球を懐かしむ〜農業に励む今の夢は「漁師」

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

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川口和久インタビュー(後編)

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86年から6年連続2ケタ勝利を挙げるなど広島投手陣を支えた川口和久86年から6年連続2ケタ勝利を挙げるなど広島投手陣を支えた川口和久この記事に関連する写真を見る

【江夏豊の代わりになれ!】

── 川口さんが広島東洋カープに入団したのは1981年、古葉竹識監督時代のことでした。79年、80年と2年連続で日本一に輝いていた頃です。当時のカープは「投手王国」とも称されていましたが、プロでやっていく自信はありましたか?

川口 自信はなかったですね。ちょうどこの年、広島は江夏豊さんをトレードで日本ハムに放出しているんです。で、古葉監督からは「おまえは江夏の代わりだからな」と言われました。でも、僕としてはプロに入ったばかりで「僕には江夏さんの代わりはできないですよ」と言ったら、「いや、とにかく君には頑張ってもらわなければ困るんだ」と言われたことを覚えていますね。それで、1年目のキャンプから一軍帯同だったんですけど、6月に山本和行さんに満塁ホームランを打たれて二軍です。

── 阪神のクローザーだった山本和行さんですね。投手に満塁ホームランですか(苦笑)。

川口 そう(笑)。あれは甲子園球場でしたね。それで、「明日から二軍だ」と命じられたんですけど、正直ホッとしましたね。「これで自分のトレーニングに専念できる」って。でも、当時のカープのファームは阿南準郎二軍監督を筆頭に、大石清さん、外木場義郎さん、大下剛史さんと、そうそうたるコーチ陣で、すごく厳しい練習を課せられました。当時は広陵高校のグラウンドを借りて練習していましたね。

── プロの選手たちが、高校のグラウンドで練習していたんですか?

川口 そうなんです。授業が始まる9時半くらいから、授業が終わる午後3時までグラウンドを使わせてもらって、それから寮に戻ってトレーニングをして。そんな生活を1年ぐらい続けていたら、すごく体力がつきました。ファームでも結果を残すことができて、2年目(82年)の7月に「一軍に上がってこい」と、安仁屋宗八コーチから電話がかかってきました。

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