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東大からプロ野球選手、イチローに打たれ二軍降格、ナベツネ・孫正義との出会い...小林至が振り返る波瀾の人生 (2ページ目)

  • 飯尾哲司●文 text by Iio Tetsuji
  • photo by Sankei Visual

── そのあと、帰国されたのですよね。

小林 2001年に帰国し、参院選に立候補するも落選。テレビのコメンテーターや通訳、執筆の仕事で食いつないでいましたが、出馬により政治色がついたことでマスコミ絡みの仕事が激減。途方に暮れていたところ、先述した江戸川大の学長に声をかけていただいたというわけです。夢だったプロ野球選手がファーストキャリアなら、アスリート以降の私の人生はいわゆるセカンドキャリアと言えるでしょう。

【東大時代0勝でプロ野球選手に】

── 話は戻りますが、小林さんは桑田真澄さん、清原和博さんの「KK世代」ですね。そもそも東大生なのに、なぜプロ入りを考え、ロッテに練習生で入ったのですか。

小林 中学時代は卓球部。高校3年時は左投げの控え投手でしたが、なぜかまだ野球を続けたくて......。世間に名の知れた強豪大学では無理。でも野球で輝きたいということで、東大野球部を目指すことにしました。高校3年夏に初めて受けた模擬試験では、偏差値は40台でしたが、一浪して、猛勉強の末に東大文科Ⅱ類に合格。野球部の門を叩きました。

── 小林さんが在籍していた時の東大野球部はどうでしたか。

小林 1年秋に東京六大学リーグ通算199勝目を挙げたのですが、そこからじつに70連敗。それをマスコミが注目しました。神宮のマウンドでは、慶應の大森剛選手(のちに巨人)、法政大の高村祐投手(のちに近鉄)らと対戦しましが、通算成績は0勝12敗でした。

── そこからプロを目指すようになったのはなぜですか。

小林 野球に未練があり、大学卒業後も続けたった。そこで私は「プロでやりたい」と言い続けました。すると、広島の渡辺秀武スカウトが「ウチでは無理だけど、ロッテの金田正一監督を紹介するよ」と言われて、90年秋にロッテの入団テストを受けました。

── 入団テストはどうだったのですか。

小林 最速130キロ弱。持ち球はカーブとシンカー。不世出の大投手・金田正一さんは実力うんぬんよりも、夢にかける若者の可能性を買ってくれたのでしょう。それで留年していた私は「夢がかなったのだから、中退してプロ入りします」と言うと、ロッテの醍醐猛夫スカウト部長が「せっかく入った東大を辞める必要はないだろう」と。周囲の説得もあり、1年間はロッテの"練習生"という立場で練習に参加しながら、単位を取得。そして91年にドラフト8位で指名してもらったのです。

 ちなみに、とてもお世話になった醍醐さんは王貞治さんより2歳上で、早稲田実業でバッテリーを組んでいました。のちにソフトバンクで王さんとご一緒するのですから、何か縁があったのかもしれません。

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