ヤクルトにクラブチーム所属の無名の大工見習いが入団。本間忠はいかにしてプロ野球選手になったのか (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Sankei Visual

無料会員限定記事

 当時、日本文理に甲子園出場経験はなかった。本間が入学した1993年夏は新潟大会準優勝。本間がエースになって以降は1994年夏がベスト8、そして1995年夏はベスト4で敗退。準決勝は伏兵の六日町に5対6で敗れた。本間は「ウチが勝つんだろうなと思っていたけど、相手が勢いに乗っていた」と語る。だが、先輩の大橋はもっと辛辣だ。

「本間がもっと懸命に練習していれば、甲子園初出場の可能性も十分ありました。運動能力が高いから、何をやらせてもうまい。練習量が少なくても成長してしまうんですけど、あいつが高校でもっとガッツリ練習していれば化けていたはずです」

特待生で入学も大学を半年で中退

 高校野球を終えた本間は、「勉強したくない」という理由から社会人野球でのプレーを希望した。だが、あいにく企業側の採用枠が埋まっていた。そこで特待生の条件で誘ってくれた日本文理大へと進学する。

 日本文理高校と日本文理大学といっても、学校法人は別で直接的な関係はない。日本文理高校は「にほんぶんり」、日本文理大学は「にっぽんぶんり」と読む。大学は大分県にある。

 大分県で大学生活を始めた本間だったが、その時間はあまりに短かった。入学してわずか半年で退学したのだ。

「入学してからヒジを壊してしまったんですけど、学校から『後期から(免除されていた)学費を払うように』と言われたんです。それは話が違うと思って、『やめます』と。親は『払うからいいよ』と言ってくれたんですけど、僕が『それは違うからいいよ』と断りました」

 母校に帰り、監督の大井に報告したが、案の定「大学に残れ」と説得された。それでも、本間は強情だった。反対を押し切って大学を退学し、新潟に戻ってきた。

 だが、その才能にフタをするのは、あまりに惜しまれた。先輩の大橋も「大学で頑張れば、エースか2番手にはなれると思ったのに......」と証言する。本間は「野球を続ける」という条件で、実家の仕事を手伝うことになった。

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る