「もっと目一杯投げろよ」郭泰源に石毛宏典が思っていたこと。どの球種も一級品で「どんな打者でも抑えられた」

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

石毛宏典が語る黄金時代の西武(4)
郭泰源(かく・たいげん)前編

(連載3:工藤公康はプロ入り拒否→根本陸夫の強行指名で西武へ。「うぬぼれが強い」左腕はいかにエースとなったのか>>)

 1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。

 前回の工藤公康に続く4人目は、最速158kmの快速球を投げることから"オリエンタル・エクスプレス"と呼ばれ、117勝を挙げた台湾出身の郭泰源。西武に入団した当初の印象や、真っ直ぐをはじめとした各球種、少し歯がゆかったピッチングスタイルなどについて聞いた。

黄金時代の西武の主力投手として活躍した、台湾出身の郭泰源黄金時代の西武の主力投手として活躍した、台湾出身の郭泰源この記事に関連する写真を見る***

――郭さんの第一印象を教えてください。

石毛宏典(以下:石毛) 茶目っ気があって冗談も通用するし、呑気で明るい感じでした。あと、「線が細いな」という印象でしたね。当時はまだウエイトトレーニングをやっている選手が少なくて、ゴムチューブを使ったトレーニングなどが主流でしたが、それにしても細いなと。

――台湾から日本にやってきて、コミュニケーションはどうでしたか?

石毛 泰源は日本語を少し話せましたし、聞いて理解することもある程度できていたので、通訳がいなくてもそれなりに会話になっていました。人づき合いはいいタイプで、特に同じ歳の秋山幸二とは親しかったんじゃないかな。秋山がソフトバンクの監督だった時には、一軍の投手コーチを務めていますし(2013年、14年)。

――郭さんは台湾代表のエースとして1984年のロサンゼルス五輪に出場。アメリカ戦では158kmをマークするなど、プロ入り前は日米のスカウトから注目されていましたね。

石毛 国際大会によく出ていましたし、球の速さはもちろん、完成度が高い投手だと聞いていました。広岡達朗監督や宮田征典投手コーチなど、西武の首脳陣からの評価も高かったんでしょう。ただ、メジャーの球団や巨人も獲得を考えていたようなので、よく西武が獲得できたなと思いました。

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