「オリエンタル・エクスプレス」郭泰源の功績。台湾人選手の力を証明し、日本球界との「橋渡し役」になった

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

石毛宏典が語る黄金時代の西武(4)
郭泰源(かく・たいげん)後編

(前編:「もっと目一杯投げろよ」郭泰源に石毛宏典が思っていたこと>>)

 西武ライオンズに13年在籍。長らく先発投手陣の柱として通算117勝を挙げ、黄金時代を支えた郭泰源。日本のプロ野球で活躍する台湾人選手のパイオニアとしての姿、指導者になってからも続いた日本と台湾の"橋渡し役"、台湾での結婚披露宴に参加した時の裏話などを、石毛氏が語った。

1999年11月、西武と契約を結んだ許銘傑(しゅう・みんちぇ/中)と握手する東尾修(右)と郭泰源(左)1999年11月、西武と契約を結んだ許銘傑(しゅう・みんちぇ/中)と握手する東尾修(右)と郭泰源(左)この記事に関連する写真を見る***

――郭さんは、台湾にプロ野球がない時代から日本のプロ野球で活躍しました。

石毛宏典(以下:石毛) 泰源は日本で13年やったのかな。台湾球界の未来も背負いながら、日本球界で頑張ったパイオニアであることは間違いありません。でも、「がむしゃらに突き進んで最多勝を狙いにいく」といった意気込みや雰囲気は感じませんでした。

 泰源に能力があってこそですが、「毎年ふた桁くらい勝って、あまり無理はせずに10年ぐらい続けられたら」という感覚でいたのかな、という気がします。少し本気で投げたら155km前後は出て抑えられていましたが、目一杯投げた時のスピードガンを見てみたかったですね。

――チームメイトとしても、そんな姿が見たいと思う投手だったんですね。

石毛 そうですね。でも、肘や肩、腰など故障が多かったですし、外国人枠で日本に来て、どうやって日本球界で長く飯を食っていくかを考えた上でのピッチングスタイルなんだろうと思います。速い球があることをバッターに意識させつつ、スライダーやシュートといった変化球で抑えるのは常套手段でもありますしね。

 もしかしたら国から発破をかけられて、「10年は日本で頑張れ」みたいなことを言われていたのかもしれませんが......本来はもっとはっちゃけて「よっしゃ、いったれ!」みたいにもなれるのに、「自分の仕事は、日本のプロ野球で長くプレーすること。だから無理をしてはいけない」と自分の気持ちを抑えるように暗示をかけ、ブレーキをかけていたような気もするんですよね。

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