清原和博は本当に「甘やかされていた」のか。石毛宏典が振り返るルーキー時代の素行と育成

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Kyodo News

石毛宏典が語る黄金時代の西武(2)
清原和博 前編

(連載1:秋山幸二 清原和博に「西武の4番」を奪われた秋山に、石毛は「遠慮するところじゃない」と伝えた>>)

 1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。1985年からの10年間で9度のリーグ優勝、6度の日本一を達成するなど、他の追随を許さない圧倒的な強さを誇った。そんな黄金時代の西武をチームリーダーとしてけん引した石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。

 前回の秋山幸二に続く2人目は、甲子園のスーパースターとして鳴り物入りで西武に入団し、4番として君臨し続けた清原和博。チームリーダーから見たプロ入り直後の清原の印象や球団の教育面、1987年の巨人との日本シリーズで涙を流した場面などを聞いた。

西武・森祇晶監督(左)と入団発表に臨んだ清原西武・森祇晶監督(左)と入団発表に臨んだ清原この記事に関連する写真を見る***

――清原さんは、1985年のドラフト会議で西武から1位指名を受けて入団。甲子園で数々の伝説を生み出したスーパースターでしたが、第一印象はいかがでしたか?

石毛宏典(以下:石毛) 自信ありげな雰囲気は微塵も感じられず、どこか不安そうでした。「プロってどんな世界なんだろう」と探りを入れているようでしたね。本人は巨人へ行きたかったのに、ドラフトでは巨人ではなく西武から指名された。プロには行きたかったけれど、西武じゃないよな......みたいな。いろいろな葛藤があったなかでのプロ入りだったと思います。

 釈然としない部分もあったんでしょうし、半信半疑な感情が表情から見てとれました。PL学園で1年生から4番を張って、甲子園であれだけの活躍をして、素晴らしいスラッガーには違いなかったんだろうけど、それよりも不安げな表情をしていたことが印象に残っています。

――清原さんが入団した時の指揮官は森祇晶監督。野村克也さんは、森監督に対して「清原は厳しく育てるべき」「甘やかした」とおっしゃっていました。石毛さんはどう思いますか?

石毛 「厳しく」ではないかもしれませんが、特別に「甘やかした」とは思いません。チームには秘密漏えい防止や門限などいろいろな決まりごとがあって、それらを破ることに対して罰金制度がありました。誰もが何かしらのルールを破ると、その都度罰金。清原の場合は門限破りがけっこう多くて、倍々ゲームで罰金が膨らんでいきました。最高200万円ぐらいまでいったんじゃないかな。

 ルールなので、当時ベテランだった東尾修でも私でも、守れない時は同じように罰金を払っていました。森さんが清原に対して、個人的にどういう声かけをしていたのかはわかりません。ただ、少なくともチームメイトの前では、清原を特別扱いしているとは感じませんでした。誰かと揉めた、といったこともあまり聞きませんでしたね。

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