中日VS巨人で起きた今ではありえない事件。中日の放棄試合となる寸前、江藤慎一のひと言で危機を脱した (2ページ目)
マーシャルと組んだ4番、5番は、相手チームにとっては脅威だった。そして最高年俸はメジャーリーガーに譲ってもあくまでも4番の座は江藤のものであった。それは当時の社会通念的にも認められていた。
漫画『巨人の星』のなかで、原作者の梶原一騎は、中日のコーチとして登場する星一徹から超人アームストロング・オズマに対して「お前を明日から5番を打たせる」と告げさせ、さらにこう言わせている。
「いまさらガラにもない謙遜は無用 5番はおろかONと並ぶ江藤がおらにゃ4番でも通用するっ」
見えないスイングで大リーグボールを打つオズマでさえも江藤を差し置いて4番に据えることには剛腕梶原一騎も気が引けたと言えようか。フィクションの世界のなかでさえもまさに押しも押されもしない4番であった。
それでありながら、江藤は決して裏方のスタッフなどに尊大な態度はとらず、丁寧な物腰で接した。筆者は当時を知る記者や選手に話を聞いたが、ボールボーイや用具係、マネージャーに対しても分け隔てなく態度を変えることはなかったという。
本連載第1回で記したが、マネージャーの足木に電話する時は、必ず「お世話になっております。江藤でございます」とのあいさつから始まった。
いかに年上と言えどもマネージャーは移動の切符や試合のチケットの手配など、選手の雑務も代行するという職制から、ぞんざいな口を利く中堅選手も少なくない。中日が別府でキャンプを張っていた時代、あまりの豪雪で急遽、名古屋に帰ることになったことがある。足木が必死の思いで50人分の切符を3本の列車に分けてかき集めたのも束の間、自分の席が寝台列車の上段ということで、「俺が何でなんだよ!」と食ってかかってきた選手がいた。ベテランは下段という不文律があり、選手にはプライドがあるのもわかる。しかし、急な手配で配慮もできない事態のなかで自分よりも若い者に怒鳴られるのはつらい。一方、江藤はチームでの立場が上がっても裏方や新人記者に敬語を絶やさなかった。
長女の孝子に集めてきたこの事実を告げるとこんなことを言った。孝子は今、アーティストをプロデュースする、誰もがその名を知る大手エンターテイメント会社で要職に就いている。
「私もプロデューサーとして表に出る人たちを輝かせるためにいろんなことを仕事でやるわけです。それはたったひとりのアーティストでもバンドや照明、PA(音響)、いろんなスタッフが何十人、何百人といてやっと輝くんです。アーティストの才能を引っ張り出すにはそういう人たちの協力が絶対に不可欠なんです。現場に入った時に、この裏方の人たちのことを真っ先に考えてよくしてあげるというのは、私の仕事の信条の1番目にあります。それは恐らく父親がそうしてきたからじゃないかと、40歳ぐらいになって気づきました。
自然にアーティストには、『あの人に必ずお礼を言ってね』、『この人はあなたの知らないところでこういうことをやってくれたんだよ』、キャリアのある人でも新人でも等しく全部説明します。恐らく父がそういう振る舞いをしていたのを、見ていたからだと思います。若い記者にも丁寧だったし、ボールボーイの方とか、グランド整備の人たちにサインをすぐ書いてあげていた。そういうのをすごく記憶しています」
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