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中日VS巨人で起きた今ではありえない事件。中日の放棄試合となる寸前、江藤慎一のひと言で危機を脱した (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 共同

 江藤は1967年のオールスターゲームで王と長嶋を前後に従えてオールセントラルの4番を打った。その絶頂期とも言えるこの年に新人投手として中日でプレーした人物に往時のことを聞くことにした。場所は神宮球場。眼前では東京六大学秋季フレッシュトーナメントが行なわれている。人物は井手峻(いで・たかし)東京大学硬式野球部監督である。

江藤慎一のエピソードを語った井出峻監督江藤慎一のエピソードを語った井出峻監督この記事に関連する写真を見る 井手は新宿高校から一浪後、東大に入学してシュートを武器とする主戦投手として活躍する(ちなみに後に名球会に入るスラッガー、谷沢健一の早稲田時代の初対戦投手が井手であった。結果はライトフライ)。卒業時に三菱商事に内定をもらっていたが、ドラフト3位で中日に指名されて入団している。

 過去、東大出身のプロ野球選手は6人いるが、そのなかで最も実績を残している。投手として1勝を上げ、野手に転向後は巨人戦において延長で決勝アーチを放ち、守っては往年の英智よろしく俊足と強肩でチームを救ってきた。アスリート性に優れたれっきとした二刀流の選手だった。井手もまた変わり種のプロ選手で中学時代は運動部にさえ所属しておらず、遊びでソフトボールをするくらいだった。

「母親が受験をしろと厳しくてね。父はまったくスポーツをしなかったですから、自分は突然変異かもしれません」。父は『青い山脈』などのシナリオを書いた東宝の脚本家の井手俊郎である。

「新宿高校に入った時も野球を許してもらえず、ようやく入部したときはショートでした。でもピッチャーをやっていた奴がグレちゃって学校に来なくなったんで僕が投手になった」。進学校の新宿高校でもグレる奴がいたのですか?と聞くと「いや、だって学校の場所が歌舞伎町の目の前じゃないですか」と笑った。

 浪人時代は「俺の夢は東大に入って野球部を六大学で優勝させることだ」と息巻く五浪中の友人と予備校で野球部を作った。井手が東大卒業後にプロ野球に進むと聞いた父親は、「俺は映画だが、お前までヤクザな道に行くのか」と嘆いたという。

 井手が飛び込んだ世界は、その時代と相まってまさに常軌を逸した世界だった。

「僕が入った時は1番が中(暁生)さんで、2番が(高木)守道さん、3番が葛城(隆雄)さん、それから江藤さんでしょ。ONがいた巨人には勝てなくて万年2位の時代でしたが、すごい打線で江藤さんはそのなかの侍大将ですよ。中さんのほうが年上だったけど、大人しかったから、江藤さんがチームの大将。今は、20歳過ぎまで球団も禁酒を守らせますが、当時は高卒新人もガンガン飲まされていました。僕ら新人がちょろちょろ飲んでいると、こっち来いって呼ばれるのですが、とにかく飲み方が豪快でね」

 井手は遠征時の旅館での様相を話してくれた。

「試合が終わってから、着替えもせずにユニフォームのまま江藤さんたちが飲んで食べてる。それでそのうちギター持って来いってなるわけです。こっちはこっちで菱川(章)なんかとその弾き語りを聞いているんだけど、それを11時頃までやっていてコーチの杉山(悟)さんに怒られました。『お前らユニフォームのままでそれはねえだろう』って」

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