藤川球児が書いた「夢」の落書き。恩師ふたりが語る中高時代のエピソード (4ページ目)

  • 寺下友徳●取材・文 text by Terashita Tomonori
  • Photo by Terashita Tomonori

【兄・順一さんとの共闘。世界への想い。そして高知県への貢献】

ーーさきほど正木監督も触れたように藤川投手は高知商時代、兄・順一さんとの「兄弟バッテリー」で2年夏に甲子園出場を果たしました。やはり兄弟の存在は大きかったんでしょうか?

正木
 実は球児が入学したタイミングで2人には野球部寮に入ってもらいました。食事からトレーニングをしたんです。そして1年秋の県大会準々決勝・明徳義塾戦で外野手だった球児が外野フライを取れずに負けた後は、2人と当時のキャプテンと1学年上のエースナンバーを背負っていたピッチャーと4人で朝に座禅を組ませて身体と同時に精神面も鍛えました。

 順一と球児は本当に仲がいい兄弟。順一も甲子園で前十字靭帯を切らなかったらプロにいける実力がありました。だから球児は兄にはノーサインで投げられるんですよね。順一は球児の投げたい球がわかるので。逆に最上級生になると周りに気を遣っていた部分もあったんでしょうねえ。

ーーそして1998年・阪神タイガースからドラフト1位指名を受けました。

正木
 ドラフト直前にデイリースポーツが「阪神・藤川1位」と記事を出した時はビックリしましたよ。それまでそんな雰囲気はまるでなかったから。実際に1位指名してもらった時の感想は「本当だったんだ」でした。

 でも、私から見たら当時の球児の実力はドラフト3位〜4位くらい。右肘の状態も決してよくなかったし。だから僕も球児に言いました。「無事、プロ野球生活をまっとうしてほしい。辛抱して細く長くやったら給料も上がっていくし、引退してからも球団にも置いてもらえるぞ」と。

 そこからここまで来られたのは本人の努力と阪神球団、そして奥さん含めた周囲のおかげです。

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