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王貞治、尾花髙夫もベタ惚れ。
斉藤和巳は「日本のエース」に成長した (4ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News

【ただ投げるだけじゃあかん】

 本当であれば斉藤は2001年にブレイクするはずだったが、肩痛の影響で白星なしに終わった。しかし一軍から離れた1年ほどの間に、大きな変化があった。これがのちに斉藤の武器になる。

「2002年の春にはまた投げられるようになりました。初めは、二軍でリリーフとして抑えても、一軍に上がると打たれる。その繰り返しでした。だから、『ただ投げるだけじゃあかんな』と思うようになりました」

 小久保が指摘したように、斉藤の球種は決して多くない。限られた球種で一軍の打者を抑えるためには何が必要なのか。この疑問を抱えながら、初めて野球を見た。

「二軍で先発するようになってから、スタッフにお願いして(自分が投げている)試合の映像をもらい、1球1球見返しながら、ストライクゾーンを9つに分けて自分のノートにチャートをつけました。

 当初は何も感じなかったんですが、そのうちに自分のいい時と悪い時の傾向が出ていることに気がついたんです。『こんな時のオレはいいけど、こうなったら崩れる』と好不調の違いがわかったので、その差をなくそうと考えました」

 それまでも他の投手の投球を見ながら、チャートをつけることはあった。ただ、「やれ」と言われてやっていただけ。この時に初めて何かが見えた。

「やっぱり、真ん中に入った甘い球は打たれる。でも、甘くても打たれない時がある。甘い球でも打たれないのはなぜなのか? どうしてバッターが見逃したのか、打ち損じたのかを考えました。そのうちに、前後の配球の意味が少しだけわかるようになったんです」

 ずっと能力頼みで投げてきた斉藤が、初めて頭を使うようになったのだ。

「一軍に呼ばれるたびに力んで失敗したけど、気負っても仕方がない。10の力を出そうと思っても難しいので、自分が持っているものをどれだけ発揮できるかを考えました」

 自分に与えたテーマは「変わらないこと」。いい時も悪い時も、気持ちを変えない。どんな相手と対戦しても同じ気持ちで向かうようにした。

「はじめは気持ちを抑えるのがしんどかったんですけど、夏くらいに一軍に上がってから、結果を出せるようになりました。二軍でしていたピッチングが一軍でもできるようになってきて。『オレでも一軍でやれるぞ』と思ったのはその頃です」

 2002年8月10日のバファローズ戦で、斉藤は2年ぶりの勝利を挙げた。そのシーズンは、2000年の89回3分の1に次ぐイニング数(70回と3分の1)を投げて、4勝1敗、防御率2.94という成績だった。

 斉藤は初めて自分の頭で配球の意味を考え、心をコントロールしようとした。完全にできるようになったわけではないが、それまでとは見違えるようだと自分でも思った。

「シーズンが終わった時に、このまま故障さえしなければオレはやれる。来年が勝負や。自分の中で最後の勝負になると思いました。『でも、気負ったらあかん、気負ったらあかん』とも。肩さえ痛くならなければ、2003年にふたケタ勝つ自信がありました」

 2003年、最高の才能を持つ投手は20勝を挙げ、日本プロ野球界を代表するエースに成長した。

(つづく)

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