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【高校野球】涙を流したエース、勝てなかった名門、監督の後悔......創部100年・関大北陽が復活への扉を開くまで

  • 谷上史郎●文 text by Shiro Tanigami

関大北陽100年物語(後編)

前編:「家庭教師の日は練習を早く終わってた」 岡田彰布だけが受けた"特別待遇"はこちら>>

中編:北陽野球部の礎を築いた名将・松岡英孝が最後まで貫いた教育者としての哲学はこちら>>

 北陽野球部の夏の甲子園出場は1999年が最後だ。そのチームは、新納弘治にとってもひときわ感慨深い存在だった。

今年春の大阪大会で準優勝に輝いた関大北陽 photo by Shiro Tanigami今年春の大阪大会で準優勝に輝いた関大北陽 photo by Shiro Tanigamiこの記事に関連する写真を見る

【甲子園出場は2007年春が最後】

「秋は優勝した産大付に2回戦(初戦)でコールド負け。春も岸田護投手(現・オリックス監督)を擁する履正社に初戦で敗れました。そんな公式戦では一度も勝てなかったチームが、最後の夏に勝ち上がって甲子園へ行ったんです」

 夏の大阪大会準決勝では、田中一徳、覚前昌也ら、のちにプロへ進む選手が揃い優勝候補筆頭だったPL学園にサヨナラ勝ち。決勝では亀井善行ら2年生軍団で勢いに乗っていた上宮太子を破って、甲子園へたどり着いた。

「あのチームには山本隆司という投手がいたんですが、5月頃から僕がブルペンへ行くと涙を流すようになった。勝てないし、また何か言われるというプレッシャーだったのでしょう。野手でも3、4番が5月末に相次いで胃腸炎になった。勝てない責任感や焦りがあったのだと思います。でも最後は、そんな選手たちが壁を乗り越えて甲子園をつかんだ。高校生の力をあらためて感じさせてくれたチームでした」

 春の甲子園出場は2007年が最後。全身を使って投げ込むエース右腕・秋本達也がチームをけん引した。翌2008年には関西大学の併設校となり、校名も「関大北陽」へ変更。男女共学化や中高一貫化が進むなど、学校も野球部を取り巻く環境も大きく変わった。しかし、関大北陽として全国の舞台には立てていない。

 かつては1学年100人前後が当たり前だった部員数も、現在は3学年で約60人。選手一人ひとりと深く向き合えるようになった一方、入学してくる選手たちの気質の変化も感じるという。そんな時代の移り変わりのなかでも、松岡英孝、新納から受け継いだ野球の根幹は守りながら、試行錯誤を重ねてきたのが辻本忠だ。

「そこやぞ、そこ〜! 今のプレーひとつで夏は決まるんや〜!」

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著者プロフィール

  • 谷上史朗

    谷上史朗 (たにがみ・しろう)

    1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。

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