2019.05.21

王貞治、尾花髙夫もベタ惚れ。
斉藤和巳は「日本のエース」に成長した

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News

負けないエース・斉藤和巳が歩んだ道(1)

 プロ野球は、毎年100人がクビになり、入れ替わりでルーキーが100人入ってくるシビアな世界だ。

 ドラフト会議で1位指名される選手は当然、厳しい目で選別される。

 1年中、アマチュア選手に張りつくスカウトがいて、彼らによって集められた情報をさらに吟味する編成の責任者がいる。しかし、必ずしも彼らの見立てがすべて正しいとは限らない。鳴り物入りで入団しながら、数年でユニフォームを脱ぐ選手は数え切れないほどいる。

 1995年ドラフト会議で福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)から1位指名を受けた斉藤和巳も「消えた天才」になる可能性があった。プロ3年目のシーズンオフに右肩の手術を行ない、プロ初勝利を挙げたのは5年目の2000年。のちに、沢村賞に2度も輝いた男は、どうやってプロの世界で生き残ることができたのか。

2度の沢村賞をはじめ、多くのタイトルを手にした斉藤【野球人生を変えた小久保裕紀との出会い】

 1998年に手術をした右肩のリハビリの最中に、プロ野球人生を大きく変える出会いがあった。ちょうど同じ時期に、ホークスの主力打者である小久保裕紀が右肩の手術を終え、戦列復帰を目指してリハビリに励んでいた。

 斉藤が当時を振り返る。

「その頃、小久保さんはバリバリのレギュラー。僕はちょっとだけ一軍で投げさせてもらった若手のひとり。手術後に小久保さんと過ごさせていただくなかで、いろいろなことに気づくことができました。小久保さんはアドバイスをするという感じではなく、タイミングを見てヒントをくれました。それまでの僕は、付き合いやすい人、気を許せる仲間と一緒にいることが多かったけど、小久保さんから、人との接し方や野球への取り組み方を学びました」

 小久保のトレーニング量は、プロ野球選手の中でも特に多いと言われていた。

「一緒に自主トレをさせてもらうようになって、小久保さんの本当のすごさがわかりました。トレーニングメニューが厳しいので、自主トレ前に”自分だけの自主トレ”をして、小久保さんに負けないように準備しました。年下の僕が、走る量でもスピードでも一番になれるように。『まだ野球の技術では勝負できん』と思ったので、そこだけは勝とうと」

 斉藤がキリギリスなら、小久保はアリだった。それも、能力も実績もあるアリだった。

「『一軍であれだけ実績を残している人が、これだけ練習するのか』と思いました。一軍選手のすごさがわかったような気がします」
 
 もし斉藤が肩の手術をしなかったら、リハビリのタイミングで小久保と出会わなかったら、おそらくその後の飛躍はなかった。肩を痛めたことで小久保と師弟関係を結び、プロ中のプロから生き方を学んでいったのだ。