菅野智之が語る背番号18の重み「実績は関係ない。必要なのは実力」
あれはもう、34年も前のことだ。
1985年の秋、ドラフト会議で桑田真澄を1位で指名し、PL学園を訪れたジャイアンツのスカウトが、まだ高校生だった桑田の目の前に風呂敷の包みを置いた。それは、桑田が憧れ続けたジャイアンツのユニフォームだった。桑田はドキドキしながら、その包みを開けた。
まず、左側の"1"が見えた。
『あっ、10番台だっ』
昨シーズン、自身2度目の沢村賞に輝いた菅野智之 ジャイアンツから背番号の希望を訊かれていた桑田は、「空いているなかで18番にできるだけ近い番号を」と伝えていた。そのオフ、空く可能性があった18番に近い番号といえば、19番、20番、そして空き番だった18番──。
「そんな、18番がいいだなんて、恐れ多くて言えないじゃないですか(笑)」
当時を振り返って、桑田は笑った。世間から見ればふてぶてしかった甲子園のスーパースターも、当時は17歳。奥ゆかしくも、さりげなく伝えていたつもりの想いを、天下のジャイアンツはちゃんと汲み取ってくれていた。
「いいんですか......」
17歳の桑田に、ジャイアンツは堀内恒夫がつけてきたエースナンバー、18番を託したのだ。藤田元司、堀内、桑田――ジャイアンツの18番は半世紀近く、この3人だけで受け継がれてきた。
桑田に、堀内が引退した1984年のオフ、30番だった江川卓に18番へ変更しないかと打診があったというエピソードを伝えると、桑田は「知らなかった」と驚いて見せた。さらに、その打診を江川が断ったらしいと付け加えると、桑田は「いかにも、江川さんらしいね」と言って、笑った。
「それが、いつも僕が言う"人間は見えない力に支配されている"ということだと思うんです。もし、堀内さんが辞めた年に僕が入っていたら、恐れ多くてすぐに18番なんてつけられなかったかもしれないし、江川さんがその申し出を受けていたら僕は違う番号をつけていたでしょうし......」
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