バレンティン「56号」狂想曲、もうひとつの物語 (6ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya
  • photo by Nikkan sports

 本当にその瞬間だった。球場が再び爆発。打球はレフトポールそばへ高く舞い上がり、日本記録更新の57号!

「榎田さんチョーかわいそう。でも、これで榎田さんの映像は今後、残るんだよね」

 この日の榎田は調子が悪かったのか、ホームランを打たれたことで崩れたのか、2回途中で降板。二軍落ちを通告されるという悲劇。

「しかも川崎(成晃)さんに打たれてノックアウト。川崎さんも福岡大の先輩なんですよ。まさか川崎さんにとどめを刺されるとは(苦笑)」

 57号の余韻が続くなか、私の右の席にバレンティンのTシャツを着たカップルが登場。彼氏は買い出しに走らされたので、彼女の亀井さん(25歳)を直撃。

――もしかして、56も57も見られなかったんですか?

「そうなんですよ~。今日は雨だからって、彼氏がぐずって。家でテレビ見てたら“バレンティン56号”の速報テロップが流れるじゃないですか。家が近所なんですぐに飛び出したんですけど、球場の前に56号の記念撮影用のプレートがあって、写真を撮っているときに57号も出ちゃったんです。なんで写真なんて撮ったんだろう。試合後でもいいのに」

 56号のホームランボールを取った成岡祥さん(26)も、実はホームランをはっきりとは目撃していないと言った。

「静岡から来たんですが、車が渋滞して試合開始に間に合わなかったんです。で、席を探してる時に歓声があがって、気づいたら目の前にボールが転がっていました。自分の席に座っていたら取れなかったと思います」

 56号をしっかり目撃した人にも、できなかった人にもそれぞれに小さな物語があり、この日を語り継いでいく。バレンティンホームラン狂騒曲は、こうしたファンの小さな物語の積み重ねで完成されるのだ。なんと素晴らしいことだろう。

 一野瀬さん(前出)は、ライトスタンドのいつもの席で56号の瞬間を見守った。

「本当にめでたいよね。感無量です」

 紅く上気した顔で言うのだった。

 夢の中で進んだ試合はヤクルトの快勝で終わった。負けた阪神ファンの表情も明るい。お立ち台を終えたバレンティンは、まずは阪神ファンが残るレフト観客席へ走り出した。バレンティンは帽子をとって感謝の意を示し、深々と頭を下げた。そして阪神ファンからの嵐のような拍手。三塁側に残ったファンへも手を振りながらベンチへ戻り、ヤクルトファンの待つ一塁側へ。フェンスのすきまから手を出すファンと手と手を合わすバレンティン。そしてライトスタンドへ。

「アーチを描け、バーレンティン! バーレンティン!」

 テーマソングが始まると、レフトの阪神ファンも歌いだす。その光景は、マグワイアが62号を打った時に負けないくらい感動的で、野球が好きで良かったと心の底から思える瞬間なのだった。

 王さんに来てほしい。ずっとそう願っていたが、そんなことはどうでもよくなっていた。バレンティンとファンが喜びを共有している光景を見れば、誰もが「55」から解放されたことが理解できたからだ。

「記録は更新されるものだということを、ファンのみなさんも望んでいるんじゃないか。プロ野球も新しい時代に――前に進もうという時期に来ているんじゃないか。そういう中で、自分が記録を更新することができて非常に満足しています」(バレンティン)

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