バレンティン「56号」狂想曲、もうひとつの物語

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya
  • photo by Nikkan sports

 9月15日、神宮球場でのヤクルト対阪神戦。試合が始まるとウラディミール・バレンティンの全身からは汗が噴き出していた。1回裏二死二塁。マウンドにはサウスポーの榎田大樹。ストライク、ボール、ボール。一球が投じられるたびに球場全体から異様な歓声が沸き起こる。

49年ぶりにシーズン最多本塁打の記録を更新したバレンティン49年ぶりにシーズン最多本塁打の記録を更新したバレンティン

 そして、歴史的一球となる4球目がバレンティンのバットと出会った瞬間、「それは鳥肌がたつような、身震いするような感じでした。今までの打席の中で最高の感触でした」(バレンティン)。大歓声の中でも打球音はかき消されることなく、空中を舞うボールは「55号」という厚い扉を打ち破りバックスクリーン左へ突き刺さった。

「スローモーションのように時間がすぎて、まだ夢の中にいるような、これは錯覚なのかと思うようでした」(バレンティン)

ベンチに戻るバレンティンを、握手や抱擁でスワローズの選手たちが迎え入れる。野球ファンからの、鳴り止まない歓声。静まらない興奮。

「56本というのは、49年ぶりに歴史を塗り替える数字だし、新しい野球の時代の扉をあける1本。自分にとっても特別な本塁打になると思う」(バレンティン)

 バレンティンと野球ファンとメディアの奏でるホームラン狂騒曲は、9月10日からの広島と阪神を相手にする神宮6連戦が舞台となり、はじまりはどこかギクシャクした演奏のように思えたのだった。

9月10日 神宮球場 ヤクルト対広島

 バレンティンは、プロ野球の年間本塁打新記録となる56本まであと3本に迫っていた。残りは24試合。「王さんの聖域」の破壊者となることに疑う余地はない。

「この数試合で感じはじめているプレッシャーが、モチベーションとして背中を押してくれるけど、記録を意識することで空回りしてスイングが崩れることもある。ゲンもかつぎますよ。同じソックス、下着、バッティンググローブ、バッグを置く場所、飲むもの食べるもの...、前日のいい流れをキープしたいんです。この神宮でホームラン記録を更新して、ファンのみなさんと喜びをわかちあえたら最高です」(バレンティン)

 この夜、バレンティンは第1打席に広島のエース前田健太から、頭ほどの高さのクソボールを叩き、漫画世界的な54号ホームラン! 「55号どころか、56号もあるぞ」と思わせたが、その後は迷ったようなスイングもあり沈黙。

「54本を打ったあとは、3人(王貞治、タフィ・ローズ、アレックス・カブレラ)の記録に肩を並べるところまで来たんだと思うと、ひと振りひと振りに緊張が高まってきて......。50本を打ってからは自分が経験したことのない時間を過ごしています。本塁打記録も経験したことがありません。それを成し遂げたとき、喜ぶのか、嬉しくて泣くのか。今はまったく想像がつかないんです」

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