バレンティン「56号」狂想曲、もうひとつの物語 (4ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya
  • photo by Nikkan sports

9月12日 神宮球場 ヤクルト対広島

「今日は、2万人はいくんじゃないか。嬉しいよね」

 一野瀬さん(前出)は観客席を眺めて言った。実は、55号のボールは一野瀬さんが座る席の前の方に飛び込んできたそうだ。

「打った瞬間にホームランってわかったんだけどさ。ホームランの時は、オレは誰よりも先に傘をさす(ヤクルトファンの恒例)んだけど、ホームランボールに目がくらんで、さすのを忘れちゃった。自分のやるべきこと(応援)をできなかった。これは反省点だね(笑)」

 バレンティン自身は「56号のイメージは想像できない」と言っていたが、一野瀬さんは
「レフトのポールに当たってほしいね。打った瞬間に飛距離は間違いないんだけど、入るか入らないかでドキドキして『コツーン』と当たってボールがレフトに転がっている。これならファンがボールも奪い合うことないしね」

 1回表、バレンティンが守備位置へ向かう。真っ赤に染まったレフトスタンドから大きな歓声が沸き起こった。

「(声援を送る)ファンは、新しいプロ野球の時代が始まるということ、新しい野球の歴史が始まるということを感じて後押ししてくれているんだと思います」(バレンティン)
 
 この夜の観衆は25617人。6本のホームランが飛び交うも、「55本を打ったことでホッとした部分もある。あと21試合の中で1本打てればいいし、打てなければ仕方ない」(バレンティン)と、ホームラン狂騒曲は徐々に高まりながら、明日へと持ち越された。

9月13日  神宮球場 ヤクルト対阪神

 球場を訪れていた中西太さん(元西鉄)にお話をうかがった。中西さんは「怪童」と呼ばれ、1953年~56年4年連続本塁打王に輝くなど、野球殿堂入りの名選手だ。80歳となった今も選手の練習を見ている時の眼光は鋭い。

―― 昭和を生きた世代には56号達成に抵抗感のある人もいるようです。

「いいんじゃないの。記録は破られるためにあるんだから。当時と今では環境も条件も違うんだから比較すること自体がおかしいんだよ。彼は素直な子でね、練習嫌いと批判する人間もいるけど、意味のない練習をしたくないだけなんだ。自分の持っている力にうまく日本の野球を吸収したよね。それにしてもケタはずれの数字だよなあ」

―― 今日は56号をこの目で見たいですか?

「野球ファンじゃないんだから(苦笑)。球場へは仕事で来たの。まあ56号はいずれ打つでしょ」

 バレンティンは第1打席で、スタンリッジの147キロの速球をフルスイング。ボールはすべてのファンの願いを乗せて右中間へ! バレンティンも両手を挙げボルテージは最高潮に達するも、打球はフェンス際で失速し。大歓声は大きな溜息へと変わった。

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