【高校野球】関東第一で歓迎されなかった無名の青年監督 それでも小倉全由は「甲子園を目指します」と理事長に言い放った (4ページ目)
昨年9月のU-18 W杯をもってU-18日本代表監督を勇退した小倉全由氏 photo by Sportivaこの記事に関連する写真を見る 西村から「よろしくお願いします」という返事をもらった小倉は、真っ先に妻の敏子さんへ報告。「あの時は本当にうれしかったですね」と、昨日のことのように覚えている。
1984年夏、城西大城西に敗れて新チームが始動すると、小倉は寺島を主将に、塩田と田辺を副主将に指名した。
「この秋は密かに狙っていたんですよ」
前チームからの経験者も多く、どこと対戦してもいい戦いはできるだろうと思っていた。しかし、秋季ブロック予選では皮肉にも帝京と同じブロックに入り、2戦目で激突した。接戦が期待されたものの、結果は1対10の大敗。しかも帝京はエース・小林昭則を温存し、背番号10の小林宏之を先発させる余裕すら見せた。
この敗戦のショックは大きかったが、落ち込んでいる暇などなかった。翌日からすぐに猛練習を再開。再び「打倒・帝京」へ向けてチームを鍛え上げていった。
【娘が生まれた翌朝もグラウンドへ】
「夏に甲子園へ行こうと思うなら、来年春の関東大会に出るしかない。関東大会に出場できなければ、夏の甲子園はないと思ってやっていこう」
帝京に敗れた直後のミーティングで、小倉は選手たちにそう言い放った。当時1年だった西村は、この言葉が今でも強く心に残っているという。
関東第一は豊富な練習量を誇り、毎朝5時半から朝練が行なわれていた。寺島、塩田、西村が異口同音に語るのは、ひたすら走り込んだ日々だ。
「とにかく毎日走っていました。監督さんも一緒に」
小倉は自ら先頭に立ち、合宿所から約5キロ先まで選手たちと走る。坂道では傾斜を利用したダッシュを何本も繰り返し、徹底した走り込みでチームの土台を築いていった。
冬の強化合宿中には、小倉の次女・理佳さんが誕生した。
「練習が終わってから、監督さんは病院へ向かうため一度家に帰られたんです。だから『さすがに明日の朝練は来ないよね』ってみんなで話していました」
寺島は笑いながら当時を振り返る。
「ところが翌朝、監督室の前を見るとスリッパがあるんですよ(笑)」
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