【高校野球】関東第一で歓迎されなかった無名の青年監督 それでも小倉全由は「甲子園を目指します」と理事長に言い放った (2ページ目)
もっとも、小倉は「実績のない自分では仕方がない」と割りきった。監督に就任した小倉は、チームに「試合に出ている下級生が中心」という雰囲気を感じとった。そこで掲げたのが、「3年生と目一杯やる」という方針だった。初めて迎えた夏は國學院に惜敗したものの、「3年生が自分についてきてくれて、いつも一生懸命やってくれたことが本当にうれしかった」と振り返る。
夏を経験した選手たちが中心となった秋季大会では帝京を7対6で撃破。つづく準々決勝では、翌春の選抜で準優勝投手となる市原勝人(現・二松学舎大附監督)を擁する二松学舎大附に0対1で敗れるも善戦。
翌年春の都大会でも、選抜帰りの早稲田実を相手に1対5で敗れたが、終盤まで0対0と互角の戦いを展開した。夏も準々決勝まで勝ち進み、修徳に2対3でサヨナラ負けを喫したが、小倉はチームづくりにたしかな手応えを感じ始めていた。
しかし、新チームとなった秋季大会では、準決勝で帝京に1対4で敗戦。この敗戦を機に、小倉は「帝京を倒さなければ甲子園はない」という思いがいっそう強くなった。
【就任3年目で決勝進出を果たすも...】
迎えた1983年4月。甲子園では池田(徳島)が選抜を制し、夏春連覇を達成するなど、「池田フィーバー」は社会現象となっていた。
そんななか、のちに関東第一の甲子園初出場時に主将を務める寺島一男、エースへと成長する木島強志、さらに名門・調布シニア出身の田辺昭広や抜群のセンスを誇った塩田正廣らが入学した。有力校から声がかかるような名の知れた選手はいなかったが、小倉は新入生を見て「身体能力の高い選手や、足の速い選手が多い」と感じた。一方で、最も印象に残ったのは、その気性の激しさだった。
「野球をやっていなかったら、どうなっちゃうんだよって心配になるくらい、向こう気の強いやつらが集まっていましたね(笑)」
田辺や塩田ら1年生数人がベンチ入りした1983年夏、小倉率いる関東第一は大きな飛躍を遂げた。好投手・山崎勝巳を擁して勝ち進むと、準決勝では夏4連覇を狙う早稲田実を7回コールドで撃破。そして決勝で待ち受けていたのは、前年秋に苦杯をなめた因縁の相手・帝京だった。
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