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【高校野球】父はPL学園と死闘を演じた伝説のエース 市岡の背番号1を継いだ息子と父の物語 (3ページ目)

  • 清水岳志●文 text by Takeshi Shimizu

 公立の4校を進学候補に挙げ、それぞれの部活動体験にも参加していた頃のことだった。

「市岡と、私の兄が監督をしていた槻の木高校の試合に、おじいちゃんが息子を連れて行ったんです。その時、市岡は部員9人で戦っていました。それでも、選手たちが全力疾走する姿を見て、心を打たれたようなんです。帰ってきて、『市岡で野球がやりたい』と言うので、『ほんなら、やりや』と」

父と同じ市岡の背番号1を託された井上智文 写真は野球部提供父と同じ市岡の背番号1を託された井上智文 写真は野球部提供この記事に関連する写真を見る

【順風満帆だった親子に訪れた試練】

 智文は勉強に励み、市岡への進学を果たした。こうして父の後輩となり、1年夏からベンチ入り。昨夏は背番号1を背負い、大阪大会のマウンドに立った。初戦の追手門学院戦では先発して勝利投手となる。じつは、父も1年生の初登板は追手門学院戦だった。不思議な縁である。

 4回戦では、その後優勝を果たす東大阪大柏原と対戦。智文は先発のマウンドに上がったが、敗戦投手となった。それから約1カ月後、筆者は雅文さんを訪ねた。そこで耳にしたのは、思いがけない話だった。

「夏の大会前くらいから、智文が『ヒジが痛い』と言うようになったんです。でも、エースやし、『痛いなんて言うな』と。8月に徳島遠征から帰ってきて、『ヒジが痛いから病院へ連れて行って』と言うので診てもらったら、靱帯を損傷していました。先生からは『だいぶ前に切れていますね』と言われて。違和感があると言い始めた頃には、もうおかしかったんだと思います。

 投げ方は僕よりずっときれいで、ヒジや肩は痛めることはないやろうと思っていました。東大阪大柏原戦も見に行きましたが、後半にボールが浮いていたのは、それが原因だったんですね。本人も『投げるたびに、ちぎれていく感じがする』と言っていました。本当にかわいそうでした。

 病院では『トミー・ジョン手術しかない』と言われました。でも、手術をすれば完治まで1年以上かかり、その間は野手としても試合に出られなくなる。そこで温存療法を選び、『春頃から投げ始めて、夏には1、2イニングでも投げられるようになれればいい』という方針にしました。本人も『それで頑張る』と言っています。大学でも野球を続けるために、手術は高校3年の夏が終わってから受けると決めました」

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