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【高校野球】父はPL学園と死闘を演じた伝説のエース 市岡の背番号1を継いだ息子と父の物語 (2ページ目)

  • 清水岳志●文 text by Takeshi Shimizu

 父も兄も教員で高校野球の指導者だったこともあり、大学に戻って教職課程を履修。28歳で浪速高校の教員となった。

 野球に携わることへ強いこだわりがあったわけではなかった。社会科の教員として教壇に立つ一方、30代で数年間、部長として野球部に関わった。その後は入試広報を担当し、生徒募集に奔走した。

 野球部を離れていた期間は長かったが、2024年に監督だった遠山奬志さん(元阪神など)が他校へ転任したことで、急遽、井上さんが監督としてチームを率いることになった。

1995年春以来の甲子園を目指す市岡高校野球部 写真は野球部提供1995年春以来の甲子園を目指す市岡高校野球部 写真は野球部提供この記事に関連する写真を見る

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 大阪は大阪桐蔭、履正社を筆頭に私立の強豪がしのぎを削る。公立校は、夏は1990年の渋谷、春は1995年の市岡を最後に、甲子園から遠ざかっている。そして今年の市岡のエースは、井上智文という。井上さんの長男だ。31年前の父と同じ背番号1を背負う。

「家には父が甲子園(選抜の日南学園戦)で打ったホームランボールが飾ってありました。でも、小さい頃は野球にそれほど興味がなかったんです」

 父は息子に野球を勧めることもなく、幼い頃は親子でキャッチボールをすることもほとんどなかったと、父と息子は口を揃える。

「家で絵を描いたり、プラレールで遊んだりしていました。休みの日は『電車に連れて行って』と言って、あちこちへ電車を見に行っていました」

 そんな智文が小学4、5年生の頃、父が臨時で短期間、浪速高校野球部の監督を務めた。

「『野球を教えられるんや』と思ったんでしょうね。そしたら家で壁当てを始めるようになって、『中学になったら野球をやりたい』と言うようになったんです」

 中学では軟式野球部に入り、ポジションは投手。それまでほとんどなかった親子のキャッチボールも、この頃から日常の光景になった。

 高校でも野球を続けると決めた息子に対し、父は「自分の好きなところへ行けばいい」と進路は本人に任せていた。一方の智文も、「父が市岡で活躍していたことは知っていましたが、是が非でも後輩になろうという気持ちはなかった」という。

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