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日本のプロ野球入りを目指すハワイ大の注目スラッガー・境野竣介は千葉県生まれ、カリフォルニア州育ち (2ページ目)

  • 山脇明子●取材・文 text by Yamawaki Akiko

【野球が身近にあった日米での少年時代】

大学最終学年をハワイ大でプレーした境野 photo by Hawaii Athletics大学最終学年をハワイ大でプレーした境野 photo by Hawaii Athletics 野球との縁――。境野は、人生のなかでそれを感じずにいられない出来事に何度も出くわしてきた。始まりは、千葉県で過ごした幼少期にさかのぼる。

 幼い頃から祖父の勲夫さんが新聞紙を丸めたボールで遊んだり、休日には父の裕介さんと公園で幼児用の軽いボールを打つなど野球に親しんできた境野だが、野球がより大きな存在となったのは、千葉ロッテマリーンズの本拠地・千葉マリンスタジアム(現・ZOOマリンスタジアム)の近くに住み、その隣人が2006~07年にマリーンズでプレーしたマット・ワトソンだったことだ。

 陽気な性格のワトソンとは家族ぐるみのつき合いとなり、境野の家族を試合に招待してくれたり、何かと親切にしてくれた。当時のボビー・バレンタイン監督とも偶然路上で出くわしたりするなど、日常的に野球に触れる環境にいた。

 だが、境野が5歳の時、裕介さんの仕事の都合で米カリフォルニア州のサンディエゴに移住することになった。「日本語しかしゃべれないまま、キンダーガーデン(日本の幼稚園にあたるが、アメリカの多くの学区では小学1年生に就学前の準備学校的な存在)の年齢でこっちに来たので、英語ができなくて、学校では泣いたりしていました」と母の宏美さん。そんな境野の心を開き、自信を持たせてくれたのが、野球だった。

「泣きながら野球のレクリエーションに参加して、『あれ? 僕が一番うまいかも』っていう感じになって(笑)。英語はしゃべれないけど、野球だとみんなが褒めてくれるので、(本人も)自信が持てて。学校では英語ができなくて泣いていましたけど、野球に行くとすごく元気いっぱいでした。だから野球に助けられました」と宏美さんは懐かしそうに振り返る。

 サンディエゴに住んでいたことで、当地で行なわれた2009年ワールド・ベースボールクラシック(WBC)第2ラウンド、そしてドジャースタジアムで行なわれた決勝ラウンドを現地で観戦。日本代表の雄姿を目の当たりにしたことも、境野が日本の野球に敬意を表し、日本人として野球をすることに誇りを持ち、憧れる要因となった。

 昨年転校したハワイ大ではイチローの代名詞である「51」が空いておらず、今はデレク・ジーター(元ニューヨーク・ヤンキース)がつけていた「2」をつけているが、その前の背番号は51番。当時6歳で、「野球を始めたのは、イチローさんの影響です」と言うほどのファンだった境野にとって、WBCで日本を引っ張ったイチローさんを実際に球場で見た時間は特別だった。それに加え、イチローさんとともに世界を相手に、時には圧倒し、時には根気強く戦い、勝ち上がっていった侍ジャパンに夢中になった。

「カッコイイですよね。日本を背負って。憧れます」。日本の野球への思いは年々増し、「日本でプレーしたい」という気持ちが強くなった。

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