「イチローのすごさがわかる忘れられない練習がある」大分高・岩﨑久則監督は8年間のプロ経験を生かして打倒・明豊 夏の甲子園を目指す (2ページ目)
「土井さんが監督の頃は、阪急時代からいる選手がすごくて、選手の入れ替えがほぼなかったイメージでした。イチローもファームですごい結果が出ているのに、上では代打で出場するが、打てなくてまたファームに落ちてくることが多かったです。それが仰木さんに代わって、調子のいい選手はどんどん入れ替えです。だからファームの選手は目の色が違っていました。よかったらどんどん放らせてくれるので、7連投ぐらいしたこともありました(笑)」
ただ、一軍に定着することはできなかった。ファームでは通用したウイニングショットのフォークも、一軍ではいとも簡単にカットされ、痛打された。
「なかなか打ち取れなかったというのが僕のなかの印象です。アマチュア時代は"そのへん"に投げておけば打たれませんでしたが、プロでは"そこ"に投げないと打たれてしまう。そこまでコントロールにも自信がなく、慎重にいって思いきり腕を振れないこともありました」
【8年間のプロ生活で得たもの】
1997年のシーズン途中にはヤクルトにトレード移籍。「野村再生工場」と呼ばれた野村克也監督のもとで7試合登板し、2球団目となるリーグ優勝、日本一を経験したが、翌1998年は一軍登板がないまま、現役を引退した。
「プロで8年間もよく放れたなと感じています。通算で1勝2敗、防御率も6点台(6.04)と実績だけを見たらたいしたことはないけど、イチローも含め、この選手はこんな練習をしていたとか、こんな捕り方をしていたと伝えることはできます。宮本慎也(元ヤクルト)は『PLの時に、簡単な打球を簡単に処理する練習を1時間も2時間も続けてやっていたので、今の自分があります』と言っていました。その記憶があったので、僕はノックでもガンガン打つことはなく、やさしいゴロを基本どおり捕りなさいという指導をしています」
引退後は、1年間だけダイエー(現・ソフトバンク)の打撃投手を務めた。1999年はくしくも、福岡に移転後、初のリーグ優勝、そして日本一に輝いた年である。
「オリックスでもヤクルトでもダイエーでも日本一を経験しました。当時ダイエーにいた秋山幸二さん、工藤公康さんの次に僕が優勝請負人だとフロントのなかでは言っていただけました(笑)」
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