検索

名将・木内幸男の「唯一の失敗」とは...1987年夏の甲子園決勝・PL学園戦を常総学院のエース島田直也が振り返る (3ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika
  • photo by Sankei Visual

【飛躍の背景にあった名伯楽の言葉】

 でもこの移籍が考えの甘かった僕の背筋を伸ばし、覚悟を決めて野球に向き合うきっかけをくれました。

 当時の大洋は「走れ、走れ」で練習は超きつい。音を上げる寸前でしたが、おかげで基礎体力がつきました。甲子園の決勝で戦った野村や、やはり甲子園で人気だった函館有斗(北海道)出身の盛田(幸妃)が同期でいたので、精神的にも助けられました。

 移籍1年目にはプロ初勝利、3年目には中継ぎ投手としてチーム最多タイの成績を挙げ、その翌年も自己最多、2年連続となるチーム最多勝。この成績が年棒に見事に反映され、プロという世界を実感したものです。

 飛躍の裏には、一軍投手コーチだった小谷正勝さんの存在があります。細かいことはほとんど言わない代わりにいつも選手をじっと見ているタイプの小谷さんが、ある日、僕にひと言、言ったんです。「いいスライダー、持っているじゃないか」。

 転機でした。俺には磨くべきものがある、そしてこの世界を生き抜くためにはどうしたらいいかが明確になりました。

 さらに監督が近藤昭仁さんになり、「おまえを使い続けるからな」と言ってくれたことも大きかった。

 言葉って大事。心に余裕が生まれ、それが最多勝獲得にもつながりました。近藤さんが監督になった年は「横浜ベイスターズ」に改称した元年で、その年にチームに貢献できたことも大きな喜びでした。

 その後、横浜の38年ぶりのリーグ優勝や、直後の日本シリーズにも登板して日本一を経験。翌年には、監督推薦でオールスターにも初出場しました。オールスターなんてごく一部の精鋭だけと思っていたので、まさに選手冥利に尽きます。

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る