名将・木内幸男の「唯一の失敗」とは...1987年夏の甲子園決勝・PL学園戦を常総学院のエース島田直也が振り返る
2020年から高校野球の強豪・常総学院(茨城)の監督を務めている、同校OBの島田直也氏。島田氏は高校時代に1987年夏の甲子園で準優勝を果たすと、その後は日本ハムや横浜(現横浜DeNA)などで16年間のプロ生活を送った。中編では、夏の甲子園のPL学園との決勝や成功と挫折を経験したプロ野球時代の話を伺った。
1987年夏の甲子園で常総学院を準優勝に導いたエース島田直也氏
【甲子園決勝で4番に大抜擢】
1987年の夏の甲子園。僕ら常総学院の準決勝の相手は、投手として評価の高かった川島(堅/元広島)を擁す東亜学園(東京)でした。
投手戦となった試合は6回に1点を取られてリードを許しましたが、8回裏にホームランで同点。打ったのは僕です。狙ったわけではなく、夢中で打ったひと振りでした。
打つことも好きでしたが、僕は大きな打球を打てるバッターではない。心がけていたのはセンター返し。その延長線にホームランがあると考え、大振りはせず、ふだんから基本練習に徹していました。
今の選手にもそのように指導しています。ちなみに低反発バットに代わってからもバッティングに対する考え方は同じなので、影響はほとんどありません。
試合は振り出しに戻り、決着がついたのは延長10回。劇的なサヨナラ(2−1)で、夏初出場の常総がついに決勝の舞台に立つことになりました。
決勝で対戦したPL学園は、春夏連覇を目指す強豪。試合を前に木内(幸男)監督は、「大人と子どもほどの差がある」と言いました。
そのうえで、つまらないゲームにだけはするまいと策を講じたと思いますが、僕が「木内さん唯一の失敗」と後日談のひとつにしているのが、この試合で僕を4番に据えたこと。「ここまで来られたのは島田のおかげ。だから島田を4番にする」と、当日の朝に言ったんです。
これは相手のPL学園が左投手で、うちの4番が左打者だったことから左対策という考えもあったと思いますが、僕にとっては驚きの采配。おかげで力みが生まれてしまい、結果的に期待に応えることはできませんでした。
2−5で敗れ、準優勝。PL学園はこの大会で、全試合初回得点という記録をつくっています。この日も初回に1点取られ、結局前半で4点取られて、そのまま流れを変えられなかったのが痛かったですね。
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著者プロフィール
藤井利香 (ふじい・りか)
フリーライター。東京都出身。ラグビー専門誌の編集部を経て、独立。高校野球、プロ野球、バレーボールなどスポーツ関連の取材をする一方で、芸能人から一般人までさまざまな分野で生きる人々を多数取材。著書に指導者にスポットを当てた『監督と甲子園』シリーズ、『幻のバイブル』『小山台野球班の記録』(いずれも日刊スポーツ出版社)など。帝京高野球部名誉監督の前田三夫氏の著書『鬼軍曹の歩いた道』(ごま書房新書)では、編集・構成を担当している。