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名将・木内幸男の「唯一の失敗」とは...1987年夏の甲子園決勝・PL学園戦を常総学院のエース島田直也が振り返る (2ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika
  • photo by Sankei Visual

【プロ野球はSSコンビで話題もすぐ挫折】

 でも試合を終えて、PL学園に対して最後まで歯が立たないという印象はありませんでした。むしろ準々決勝の中京(現中京大中京/愛知)のほうが、インパクトが強かったくらいです。

 思うにPL学園というチームの強さはわかっていたけど、主将の立浪(和義/現中日監督)やエースの野村(弘/元横浜)ら選手個々がどれくらいすごいのかを、僕はあまり知らなかった。相手を過剰に意識せず、それが逆によかったのかもしれません。

 そして、木内さんは勝てないと断言したけど、僕はこの試合でもそうは思っていなかった。1年で試合に出ていた仁志(敏久/元巨人ほか)に「あの時に本気で勝とうとしていたのは島田さんだけですよ」と言われましたが、最後まで勝ちにこだわっていたのが僕でした。

「甲子園に出たらモテるかも」とは思っていましたが、大会後は予想を超えて驚くほどのファンレターをもらいました。

 甲子園で活躍すればプロ入りも夢ではないかも----。その思いが現実となり、翌年ドラフト外で日本ハムに入団。帝京(東京)のエースだった芝草宇宙(現帝京長岡監督)と「SSコンビ」として売り出されて話題を集めましたが、やはり厳しい世界ですぐに挫折を味わいました。

 1年目に右肘を手術。高校時代はケガをする自分など想像もできなかったのに、肩が上がらず、足もつる。あり得ないことが次々起きて、ケアの不十分さが早くも露呈されてしまいました。その後のプロ生活では、いいこと、悪いことのありとあらゆることを経験することになります。

 2年目の終わりに一軍初登板を果たすも、4年目には二軍で負け続き。シーズン後、横浜大洋ホエールズ(当時)へトレードされました。当時はトレードというと戦力外の悪いイメージのほうが強く、通達された時、思わず「断れないんですか」と口にしたほど。

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