甲子園大会は「ノーヒット・ノーラン氷河期」最後の達成者は20年前のダルビッシュ有
今センバツは、低反発の「新基準バット」が導入されて初めての大会。さまざまな影響が取り沙汰され、検証も行なわれるはずだが、打球の飛びが抑えられたことで「投手優位」の傾向が出るのは間違いない。となると、投手にとっての大記録であるノーヒット・ノーラン達成の可能性も少しは高まることが期待される。
じつは甲子園大会は、春夏を通じて史上最大の「ノーヒット・ノーラン氷河期」に突入しているのだ。低反発バットの影響を追い風に、果たしてこの氷河期を打ち破る投手は現れるだろうか......。
2004年春のセンバツでノーヒット・ノーランを達成したダルビッシュ有 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【2004年以来、達成者はゼロ】
春夏の甲子園大会を通じて最後のノーヒット・ノーランは今から20年前、2004年春の第76回大会1回戦で、東北高のダルビッシュ有(東北高/現・パドレス)が熊本工を相手に達成したもの。NPBからMLBで活躍を続けたダルビッシュが日米通算200勝を目前にする大投手となる一方、その同じ期間、甲子園ではそれに続くノーヒッターがひとりも現れていないわけだ。
1916年夏に[寺澤1]市岡中の松本終吉(対一関中)が達成して以来、春夏甲子園大会のノーヒット・ノーランは春12回、夏23回(22人)で合計35回を数えるが、現在も継続中の20年という空白期間は高校野球の歴史上、最も長い記録である。
それまで最も空白期間が長かったのは、1939年夏決勝の海草中・嶋清一(対下関商)から1951年春の鳴尾・野武貞次(対静岡城内)までに要した12年で、しかも戦争による5年間の中断を含んでのもの。
これに次ぐのは1916年夏の第1号から1927年夏の第2号(広陵中・八十川胖/対敦賀商戦)までの11年。
参加校数が増えて試合数も増えた戦後になると、1958年夏の高知商・森光正吉(対松阪商)から1967年春の市和歌山商・野上俊夫までの9年が最長だった。
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著者プロフィール
戸田道男 (とだ・みちお)
1961年岩手県一関市生まれ。明治大学卒業後、東京スポーツ新聞社で4年間野球担当記者を務めたのち、ベースボール・マガジン社入社。週刊ベースボール、ベースボール・クリニックほか野球関係の雑誌、ムックの編集に携わる。2011年に同社を退職し、同年から2021年まで廣済堂出版発行の「ホームラン」編集を担当。現在はフリーランスの立場で野球関連の編集者&ライターとして活動中。