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PL学園・中村順司と帝京・前田三夫が甲子園のベンチからにらみ合い「あれはなんだ?」「大変失礼なことをしました」 (4ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

●甲子園優勝で知名度が上がる苦労とは?

前田 私は大学4年だった1972年、22歳の時に帝京の監督になり、初めての全国優勝は1989年夏でした。それまで2度決勝で負けており、勝った時はここまでついに来られたと心の底からうれしかったですね。

 でも、同時に思いました。優勝したからには、それに見合うチームをつくっていかなければならない。勝てば勝つほど選手たちに、そして自分にも厳しくなっていったような気がします。

中村 私は当初18年も監督をやるとは考えておらず、次期監督のつなぎ役として2、3年のつもりだったんです。だから優勝するというよりも、それまで社会人野球で経験を積んできたので、目の前にいる選手たちをもっとうまくしたい。そんな思いで指導に当たっていました。

 だから桑田(真澄)や清原(和博)の時もそうですが、優勝してもグラウンドに戻れば何かが変わるわけでもなくいつもどおり。それは勇退する最後まで変わりませんでした。

前田氏は現在74歳、中村氏は77歳前田氏は現在74歳、中村氏は77歳この記事に関連する写真を見る前田 電車に乗ると、よく「前田さんですか? 頑張ってください」なんて言われてね。それはとてもありがたいことでしたが、半面、知名度が上がると野球以外のところでも注目され、選手が街中で遊んでいたとか学校に通報が入った時は往生しました。

 甲子園に出場したあとは選手がそれで満足してしまい、手綱をより引き締めなければならなくて、真の伝統校になるのは本当に大変なことなんだと痛感しました。

中村 その点、うちはPL教団の敷地内に野球場と寮があり、世間と隔たりがあったのがよかったのかもしれないね。選手は寮生活だから外にほとんど出ないし、私も野球以外のことに惑わされることがなかった。教団職員だったから給料が急に上がることもないし(笑)。常にフラットな気持ちで指導していました。

前田 私の采配がよくなかったという自己反省もあるんですが、一時期、帝京がヒール役になり、マスコミから叩かれましてね。監督とは孤独だなと思ったものです。

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