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仙台育英の最速右腕・湯田統真が153キロに到達した方法 つかんだ理想のバランス感覚  (2ページ目)

  • 田口元義●文・写真 text & photo by Taguchi Genki

【中学時代は外野がメインの無名選手】

 須江にとって湯田は、思いがけず出会った「原石」だった。

 福島県の南部。白河市に隣接する、人口およそ6000人の泉崎村が、湯田の故郷である。

 小学生の頃はリトルリーグでプレーしていたものの、そこまで野球への情熱があったわけではなく、泉崎中入学当時は「高校は野球をやらなくてもいいかな」と、近隣の進学校への受験を漠然と考えていたくらいだった。

 その理由のひとつに環境もあった。泉崎中の軟式野球部に入部した1年生が、湯田ただひとりだったのである。そんな湯田が、高校野球に興味を抱くようになったのが中学2年の時だ。

 1998年のセンバツで仙台育英のライトとして出場した父・利行氏の勧めもあり、2019年の夏に仙台育英が8対5で鳴門(徳島)に勝利した試合を甲子園球場で観戦した。あの時の胸の高鳴り。湯田にとって強烈な体験だった。

「父の出身校なので昔から話を聞かされていたんですけど、実際に育英の試合を観て『ここでやりたいな』って」

 当時、須江は先輩である湯田の父との縁もあって、泉崎中を視察することになった。といっても、期待値は正直、薄かった。

 無名の中学。しかも、外野がメインで、時折ピッチャーとしてマウンドに立つ唯一の2年生部員。高校の指導者の目を引く要素はどこにもない。だが、プレーを見た須江は震えた。それどころか、啓示を授かったような気持ちにすらなった。

「『ピッチャーとしての能力のほうが秀逸だ』って。あの頃は外野で、バッティングも面白かったんですけど、ピッチャーとしての伸びしろのほうがあるとすぐに感じましたね」

 中学軟式野球の秀光中で日本一を経験し、高校野球の指導者に転身した須江には、「軟式出身のピッチャーは腕をしっかり振ってボールを投げる子が多い。硬式に適応するまで時間がかかるが、適応できたら必ずよくなる」といった持論がある。湯田もまた、硬式に適応し、育ったピッチャーだった。

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