帝京名誉監督・前田三夫が指導者人生を振り返る。名将の礎となったのは「選手時代の万年補欠」 (5ページ目)
レギュラーと補欠が一体となるチーム
レギュラー選手には「補欠の気持ちを考えろ」、また不満顔の補欠には「レギュラーはレギュラーでプレッシャーを感じながら戦っている。その気持ちも思いやれ」と、事あるごとに声をかけてきた。
理想のチームが毎年つくれたわけではないが、今も一番だと思うのは、レギュラーと補欠が一体となるチーム。前田監督は過去に春夏通算26回の甲子園出場経験を持つが、いずれの時もその歯車がピタリと合ったという。
「私にノックという特技があったように、どの選手も活かすべきいいものを必ず持っています。レギュラーにはなれなくても、それに気づかせてあげられるような指導がとても大切じゃないかと。そうすれば、選手全員が3年最後の夏まで同じ気持ちで戦えると思います」
1979年秋の東京都大会、神宮球場にてこの記事に関連する写真を見る 長い間指導者を続けられたのは、補欠という下積みを経験したから。つまずいた選手には「お前の気持ちはよくわかる」と自分の過去を隠すことなく話し、気持ちをほぐしてきた。
そして、公式戦前のベンチ入りメンバーの発表とユニフォームの手渡しを、前田監督は長らく部員全員の前で行なうことはしなかった。儀式のように行なうチームも多いが、決して大げさにせず該当選手だけを呼び、「補欠の思いも背負って頑張れ」と言ってサラリと渡してきた。それはベンチ入りが叶わなかった選手にその光景を見せるのは酷だと、自身の体験から貫いてきたことだった。
「私は野球の選手として一流ではなかった。だからこそ、イヤなことにも挑戦して自分を磨いてきたつもりです。須江監督もおそらく同じ気持ちではないかと思うし、いろいろな選手の気持ちがわかるから、一人ひとりと並走するつもりでやってきたんじゃないですかね。若くしての全国優勝だからこれからがまた大変だと思いますが、ブレずに頑張ってもらいたいと思います」
余談だが、前田監督は大学時代、神宮球場のフィールドの中に一度も入ったことがなかった。それが海外遠征に伴う東京都の代表監督を務めた時、たまたまサードのポジションに立つ機会があった。いつもはベンチの中にいるので、見慣れていたのは外野へ向かって広がる世界。ところがこの時目に飛び込んできたのは、それとは真逆の観客席が迫ってくるような光景だった。
選手たちはいつも神宮のフィールドに立ち、このなかでプレーしていたのか......。まるで我が庭のように戦ってきた球場だったが、初めて気づいた思いがけない発見。それは、50年の節目に引退を決意するわずか3年ほど前、指導者として晩年の出来事だった。
中編<山﨑康晃の逃げ出し事件、中村晃のジャンボ弁当箱、松本剛が大谷翔平から放った決勝打...帝京・前田三夫が回顧する教え子との思い出>
【プロフィール】
前田三夫 まえだ・みつお
1949年、千葉県生まれ。木更津中央高(現・木更津総合高)卒業後、帝京大に進学。卒業を前にした1972年、帝京高野球部監督に就任。1978年、第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降、甲子園に春14回、夏12回出場。うち優勝は夏2回、春1回。準優勝は春2回。帝京高を全国レベルの強豪校に育て、プロに送り出した教え子も多数。2021年夏を最後に勇退。現在は同校名誉監督。
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