帝京名誉監督・前田三夫が指導者人生を振り返る。名将の礎となったのは「選手時代の万年補欠」 (3ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

仙台育英・須江航監督との共通点

 帝京のユニフォームを脱いだあとは、試合解説やマスコミ取材の依頼があとを絶たず、現役指導者だった時以上に忙しいそうだ。この夏の第104回全国高校野球大会でも都大会の決勝戦や、甲子園大会では民放で解説を担当した。

 その甲子園で頂点に立ったのは、悲願の「白河の関越え」を果たした仙台育英である。同校を率いる須江監督は、1983年生まれの39歳。前田監督とは年齢こそ大きく違うが、実はふたりにはある共通点がある。それは、学生時代にレギュラー選手ではなかったことだ。

 前田監督の場合、高校ではレギュラーだったが進んだ帝京大ではずっと補欠。4年時は一塁コーチャーや新人監督としてユニフォームを着たものの、公式戦出場の記録はなし。練習試合も途中交代で出たわずかな打席しかない。

 対する須江監督は埼玉県から仙台育英に進んだが、大所帯のチームにあって3年間補欠、最終的にマネージャーという立ち位置だった。進んだ八戸大でも学生コーチとして活動し、フィールドこそ違えど、ふたりとも選手としてはまったく日の目を浴びない時期を経験していた。

 このことについて、前田監督は「補欠だったことは指導者として決してマイナスではない、むしろプラス面が多かった」ときっぱり言う。下級生の頃は延々とバッティングピッチャーをやらされ、好きだったはずの野球がどんどん苦痛でしかなくなるというつらさを味わった。一度はやめることを決意し実家に戻るが、思いとどまらせたのは、畑仕事で泥まみれになって働く両親の姿だった。

「家は半農半漁で、父と母が高い学費や寮費をどうにかこうにか工面してくれていた。にも関わらず、自分は野球ごときで音を上げている。ふたりを見た時、やめるなんてとても口にできなかった。そして、心に決めたのです。何があってもやり通す。バッピでもノッカーでもいい、とことんやって堂々4年間を終えてやろうと」

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