大島高校「奇跡のチーム」はいかに誕生したか。島外の強豪校志望のエースは仲間の言葉に悩みが消えた

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

【短期連載】離島から甲子園出場を叶えた大島高校のキセキ 第5回(最終回)

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昨年秋の九州大会で準優勝し、今年春のセンバツに出場した大島高校昨年秋の九州大会で準優勝し、今年春のセンバツに出場した大島高校この記事に関連する写真を見る

きっかけは「離島甲子園」

 奄美大島の野球熱は高い。島内には40近い草野球チームが存在し、社会人になってから野球を始める者もいるという。

 その熱は子どもへと受け継がれる。当然、学童野球や中学野球の熱も高いのだが、有望な選手は島外の高校へ進学する流れがあった。

 1990年代に阪神で活躍した亀山努は小学6年から中学3年まで奄美大島で過ごし、高校は鹿屋市の鹿屋中央へ。上野弘文(元広島)は奄美大島で生まれ育ち、高校から鹿児島市の樟南へと進んだ。近年では泰勝利(楽天)が奄美大島から神村学園へ進み、プロ入りして話題になった。東海大相模の注目右腕・求航太郎は、中学から島を出ている。

 そして今から3年前、奄美大島の中学球界で有名だった大野稼頭央、西田心太朗のふたりは、県内きっての名門・鹿児島実業から勧誘を受けていた。

 大野は奄美大島東部の龍郷町で生まれ育ち、龍南中では左腕エースとして活躍。キレのある速球と多彩な変化球を武器にする実戦的な投手だった。一方の西田は島の中心部である奄美市で育ち、金久中では主砲で正捕手。恵まれた体格を誇る、強肩強打の捕手である。西田は小学生時から大野と対戦するたびに「いずれは稼頭央とバッテリーを組みたい」と思いを募らせていた。

「ふたりで鹿実に行って、バッテリーを組んで甲子園を目指すのもいいなと考えていました」

 一方の大野は幼少期から鹿児島実に憧れを抱いていた。中学を卒業したら島を出て、鹿児島実で野球に打ち込もうと考えていた。

 だが、中学3年の夏にふたりの運命は変わる。きっかけは「離島甲子園」だった。

 離島甲子園とは、正式名称を全国離島交流中学生野球大会という。全国の離島でプレーする中学球児が一堂に会し、交流しながらトーナメント戦を戦う大会だ。村田兆治氏(元ロッテ)が提唱した大会で、この年は長崎県対馬市で開催された。

 西田は奄美市選抜、大野は龍郷選抜のメンバーとして離島甲子園に出場している。西田は試合に勝ち進むたびに、喜びをひしひしと感じていた。

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