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石毛宏典が振り返る1974年の「黒潮打線」銚子商。「篠塚(和典)はひ弱な印象だけど、投手力が際立っていた」

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Kyodo News、Sankei Visual

 桑田真澄と清原和博のKKコンビが躍動した1985年のPL学園(大阪)、松坂大輔を擁した1998年の横浜(神奈川)、史上初となる春夏連覇を2度達成した大阪桐蔭(大阪)......夏の甲子園で「歴代最強」と呼ばれるチームはいくつかある。

 そんな強豪校の中で、篠塚和典(当時は篠塚利夫/元巨人)や土屋正勝(元中日、ロッテ)などの活躍で優勝した1974年の銚子商(千葉)を挙げる声も根強い。決勝までの5試合で29得点と打ちまくった打線は"黒潮打線" と恐れられ、一方で失点はわずか1。圧倒的な強さで大会を制した。

 1980年代~1990年代にかけて黄金時代を築いた西武で、長らくチームリーダーを務めた石毛宏典氏は、市立銚子(千葉)時代に1番打者として1974年の千葉県大会決勝で銚子商と相まみえている(0-2で敗戦)。当時、石毛氏が感じていた銚子商の強さ、自身が銚子商に入らなかった理由、当時の千葉の高校野球熱について聞いた。

1974年の銚子商で4番を打った篠塚(右)とエースの土屋1974年の銚子商で4番を打った篠塚(右)とエースの土屋この記事に関連する写真を見る***

――1974年の夏の甲子園を制した銚子商は、決勝までわずか1失点。唯一の失点は1試合目のPL学園戦での押し出しのみと、エースの土屋さんは適時打を1本も許しませんでした。当時の土屋さんや、銚子商の投手陣にはどんな印象がありますか?

石毛宏典(以下:石毛) 土屋は絶対的エースという存在で、完成された投手でしたね。同じ千葉県旭市の出身で、彼が一中(旭市立第一中学校)で僕が二中(旭市立第二中学校)ということもあって、よく練習試合をしました。中学時代は、「そこそこ安定した投手」くらいの印象だったんですが、銚子商へ行ってから変わりましたね。

 土屋が1年生の時の3年生には、エースの根本隆さん(元大洋、西武)がいました。銚子商の根本さんといえば、成東の鈴木孝政さん(元中日)、科学技術高の森繁和さん(元西武)と共に"千葉三羽ガラス"と言われるくらいすごい投手だったんです。さらに2年生には、飯田三夫さんという体が大きな次のエース候補もいました。

 そんな優秀な投手たちがひしめく銚子商で、土屋は1年生の時は練習に励んで下積みをし、実質的に2年生からエースとして活躍し始めました。ボールが軟式から硬式になったことで球が速くなりましたし、体もでき上がっていきましたね。ランニングを中心に体作りをしていたんでしょうけど、徐々に投手として完成されていきました。筒井精という"準エース"の右の本格派もいて、同じく右投げの土屋と2人でほとんどの試合を投げていた。投手のレベルは高かったです。

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