石毛宏典が振り返る1974年の「黒潮打線」銚子商。「篠塚(和典)はひ弱な印象だけど、投手力が際立っていた」

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Kyodo News、Sankei Visual

千葉の野球の強さが全国に広まった時代

――土屋さんは夏の甲子園で優勝したあと、「県大会決勝の市立銚子戦が一番しんどい試合だった」と言っていたそうですね。

石毛 「市立銚子が一番強かった」みたいなことを土屋が言ってくれたようですね。リップサービスもあると思いますけど(笑)。野球そのもののレベルは、僕らより銚子商のほうが断然上でしたから。

――野球のレベルという点では、銚子商に続いて翌1975年も千葉の習志野が夏の甲子園を制覇し、千葉の野球の強さが全国に浸透した時代だったと思います。当時の県大会を勝ち抜くのは大変でしたか?

石毛 出場校も多かったですしね。まして、僕らが1年生の時までは千葉県単独の大会ではなく、「東関東大会(1959年~1972年)」という、千葉県と茨城県を対象とした地方大会が行なわれていた。茨城は土浦日大や取手一、竜ヶ崎一あたりが強かったですし、とにかく大変でしたよ。

 ただ、1974年は銚子商、1975年はエースの小川淳司(元ヤクルト、日本ハム)が牽引した習志野が夏の甲子園で優勝しましたし、確かに千葉の野球のレベルが高まっていった時代だと思います。銚子商や市立銚子もそうでしたが、他の地域から選手を引っ張ってくるとかじゃなく、ほとんど地元の子どもたちでチームを編成していた。銚子商が甲子園に出れば、地元の応援団がアルプススタンドで大漁旗を振って応援したり、とにかく野球熱が凄まじかったですよ。

 そもそもは1965年の夏の甲子園で、木樽正明さん(元ロッテ)がエースの時に銚子商が準優勝した頃から、「野球をやるなら銚子商だろ」みたいな雰囲気があったんです。県内の優秀な選手はみんな銚子商に集まっていましたね。

――石毛さんが銚子商を選ばなかった理由は?

石毛 そもそも高校に行くつもりがなくて、野球も中学で辞めて、卒業後は大工になろうと思っていました。その頃の野球部はかなり厳しくて、正座させられたり殴られたりが当たり前の時代でしたから、面白くなかったんでしょう。

 でも、中学の野球部の監督でもあった担任の先生に「高校に行って野球をやれ」と言われて......。嫌だったので断ったんですが、親父からも「先生の言う通りにしろ」と言われたので、高校に行って野球をやることにしたんです。先生に「銚子商ですか?」と聞いてみたんですが、「いや、市立銚子に行け」と。

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