大阪桐蔭の「夏の甲子園」初勝利。控え部員の献身に主役をはじめナインが応えた (2ページ目)
高校野球では2年生が応援団長を務めることが多いのだが、この時は今がその役を担っていた。本来ならセンバツは下級生に任せるべきだったが、初めての甲子園であったことから、「俺たちにも何かできることはないか」と考えた。大太鼓の田中雄一郎、60キロもある応援旗を持つ松村俊輝ら、背番号をもらえなかった3年生と話し合い、それぞれ役割を買って出た。
森岡が目を細めながら言う。
「応援団長の今だったり、(ベンチ)メンバー外の子たちが『自分がやります』と、こちらが言わなくても率先して裏方の仕事を買って出てくれた。それも、あの年の大阪桐蔭の強さやったと思います」
今でこそ、ベンチ外メンバーもレギュラーと同等にクローズアップされるようになったが、30年前の高校野球での彼らの立ち位置は、あくまで補欠だった。
大阪桐蔭のメンバーとして力になりたい──その使命感が今を突き動かしたのは事実だ。しかし、冷静な自分も否定はできなかった。
「桐蔭が甲子園に出たことはホンマにうれしかったし、応援も楽しみましたけど、心のどこかで『恥ずかしい』っていう思いがありました。野球部なのに応援団って......親にも堂々を話せませんでした。だから、夏は『応援団長はもうええかな』って思っていました」
夏の大阪大会は従来どおり、2年生部員が応援団長を務めていたこともあり、今はセンバツの経験や応援の手順を教える腹積りでいた。ところが...。
「おまえがやれや。今がやらんかったら、アルプスが盛り上がらん」
主将・玉山雅一からの突然の説得だった。
「あんな惨めな思いは、もうええわ」
今はそう返したが、玉山も引かなかった。
「ダメや! おまえがやらんと、応援団が締まらんし、野球部もまとまらん」
玉山が今にこだわった理由を明かす。
「『センバツで応援団長をやったから』ってわけやないんです。言葉はおかしいかもわからんけど、今は"メンバー外のキャプテン"みたいな立場やったんです。人柄はええし、まとめる力もあった。3年生が30人おったなかでメンバー外の選手は当然出てくるわけで、今はそういった子たちの気持ちをよう理解してたんです。ベンチ入りメンバーとの間をうまく取り持って、チームに摩擦が生じないようしてくれたんです」
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