悲運のエース・大野倫。高校野球への思いを変えた名将・栽監督との出会い (4ページ目)

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh

 沖縄県立沖縄水産高校は、沖縄本島最南部の糸満市にある。「海邦丸」という実習船を持ち、漁業従事者や船員、水産関係者を育成する水産高等学校だ。1980年に、豊見城高で春夏合わせて6回の甲子園出場を果たした栽弘義が野球部監督に就任してから、沖縄県下屈指の強豪校になった。

「僕の家があった具志川から糸満までは車で1時間半かかります。当時は公共交通の便も悪かったから、当然、下宿でした。はじめは野球部の寮に入ったのですが、上下関係がすごく厳しくて、寝る時間もなかった。食事はバイキング形式だったのですが、先輩がほとんど食べてしまうので、僕ら1年は食べるものがなかった。

 入学前に栽先生から『体が細いから体重を増やしておきなさい』と言われて、トレーニングジムに通って10キロほど増やしたのですが、入学後にどんどんやせ細ってしまって......。栽先生はそれを見ていて、1年の夏が終わった頃に、先生の自宅の前に建てた合宿所に入れていただくことになった。バッテリーを中心に10人くらいだったと思います。この合宿所では、毎朝、バケツ1杯といっても過言じゃない量のご飯を食べた。それでまた体重が元に戻りました」

 当時はまだ、厳しいスパルタ指導が当たり前の時代だった。

「練習は長かったですね。朝練をして、授業のあとは通常の練習があり、夜練もあった。当時は夜の10時から11時ぐらいまで練習していました。休日の日は、それこそ1日中練習していましね。当時の沖縄水産は、沖縄県内から優秀な選手が集まっていました。1年生だけで、入学当初は73人もいました。でも、1日で辞めるような選手もいて、半年で23人になりました。

 競争もさることながら、厳しい上下関係や、勝ちを突き詰める環境に適応できなかったんですね。僕が入学した時点で、沖縄水産は5年連続して夏の甲子園に出場していました。甲子園に行くことが義務付けられたチームでした。栽先生のすごいところは、甲子園に連続出場しても緩むことなく、チームを引き締めていたところですね」

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