悲運のエース・大野倫。高校野球への思いを変えた名将・栽監督との出会い (2ページ目)

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh

 そんな大野の目の色が変わったのが、当時具志川球場で行なわれていた中日ドラゴンズの春季キャンプに行ったことがきっかけだった。

「たしか4年生くらいだったと思います。キャンプのオフの日に、『野球教室』が行なわれて、宇野勝選手、大島康徳選手、都裕次郎投手、藤王康晴選手がいたんです。学校を抜け出して見に行ったのですが、都さんに教えていただいたのを覚えています。体だけは大きかったので『いいボール投げるな』とか褒められて、プロ野球選手に強いあこがれを抱くようになりました。それまで、なんとなく遊びで野球をやっていたのが、甲子園やプロに行きたいと思うようになったのはそこからですね」

 大野の野球への打ち込み方は劇的に変わった。そして小学校5年の時に、大野がエースで4番だった田場小学校スポーツ少年団チームは沖縄県チャンピオンとなる。

「当時はボーイズやリトルシニアなどの硬式のクラブチームは沖縄になかったので、具志川東中学の軟式野球部に進みました。でも、中学では県内ベスト4どまり。球は速かったのですが、変化球は一切投げませんでした。小細工に弱くて、バントで揺さぶられて負けるパターンでした」

 しかし、大野は屈指の好投手として沖縄県下で、その名を知られるようになっていた。

 沖縄は1952年から夏の甲子園の予選に参加するようになる。1975年から単独の大会となり、毎年甲子園に代表を送るようになった。しかし、沖縄県勢は健闘するものの、なかなか決勝戦まで勝ち上がることができなかった。

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