無名捕手→甲子園8強投手へ。鶴田克樹は「育成からでも這い上がる」 (2ページ目)

  • 井上幸太●文 text by Inoue Kota
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 来年度の部員獲得にあたり、当時の坂原にはある強い思いがあった。

「この2015年、夏の山口大会で決勝まで勝ち進みながら甲子園に行くことができませんでした。だからこそ、100回大会の夏という大きな節目での甲子園出場を何とか達成したかった。それに向けて、野球の技術以上に『下関国際で100回大会の甲子園に出場する』という強い気持ち、"志"を共有できる選手をできるだけ多く探したいな、と」

 グラウンドで話すなかで垣間見えた鶴田の性格、「ウチの練習は厳しいと思う。それでも大丈夫か?」と聞いた際の反応を見て、冒頭の言葉で入学を打診した。

「本人もまさか野球で高校に誘われるとは思っていなかったみたいで、すごく嬉しそうにニコッと笑っていたんです。その日のうちにご両親にも話してくれて、ウチに来てくれることになりました」

 こうして下関国際の門を叩いた鶴田だったが、入学当初は「将来のレギュラー候補」と呼べる選手ではなかった。

 本人が「入ってすぐは周囲に圧倒されていました」と語るように、1年秋までの県大会では出番なし。練習試合でも、レギュラークラスが揃うAチームには入れず、Bチーム暮らしが続いた。

 大きなターニングポイントとなる投手転向は、思わぬ形で訪れる。1年秋に行なわれた1年生大会でのことだった。

「当時エース格で考えていたのが吉村(英也/甲子園では左翼で出場)でしたが、1年生大会を臨むにあたって、投手が吉村ひとりでは苦しい。そこで鶴田を投げさせてみたんです。当時は中学時代の名残でサイドスロー気味のフォーム。しかも、フォームが固まっていないこともあって、投げる度に微妙に投げ方が変わる状態でした。それでもなんだかんだ四球は出さない。動き自体は決して器用とは言えませんでしたが、そこの繊細さ、器用さはあるのが印象的でしたね」

 この大会をきっかけに、本格的に投手として練習を重ねるようになり、2年夏に急成長を見せる。練習試合で"格上"と目される2チームを相手に、立て続けの好投を見せたのだ。

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