石井丈裕の登板に観客が「えー?」。
早実・荒木大輔の控えはツラいよ...

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • 岡沢克郎●写真 photo by Okazawa Katsuro

証言で明かす荒木大輔がいた1980年の高校野球

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証言3 石井丈裕

 1980年4月に早稲田実業に入学し、1年生にして夏の東東京大会のマウンドに上がって以降、この名門チームのエースは荒木大輔だった。

 故障があっても、不調の時もエースが先発し、勝利の可能性がある限りは最後まで投げ切るのが昭和の高校野球だった。主力投手として西武ライオンズのリーグ優勝、日本一に貢献し、沢村賞にも輝いた石井丈裕が、早稲田実業時代に荒木の控え投手だったことをどれだけの人が知っているだろうか。


1982年夏の甲子園でマウンドに上がった石井丈裕1982年夏の甲子園でマウンドに上がった石井丈裕高校3年間、エースの背中を見続けた男が知る荒木の素顔

 僕が早稲田実業に入る時、同期に荒木大輔というリトルリーグで世界一になった男がいるということはわかっていました。彼は本当に有名でしたから。それでも、負けないで競ってやろうという気でいました。

 彼にはたくさんの修羅場をくぐった経験があった。それに比べて僕にはまだ全然力がなくて、試合になればビビッてしまうような選手だった。それまで自分がいたチームではそれなりに投げてはいましたが、スタートラインからまったく違っていましたね。

 僕のほうが背は高かったけど、大輔は肩幅があって大きく見えました。熊でも見るような、そんなイメージが僕にはありました。

 カーブがすごくて、ブルペンで打席に立った時には、アウトコースに決まるボールなのに思わず腰を引いてしまうほど。技術的にいえば、左肩が開かずバッターに向かってくるような感じがして怖かった。当時はスピードガンがまだ普及していなくて何キロ出ていたのかはわからないけど、威圧感はありました。でも、一番素晴らしかったのはコントロールです。

 僕は、背は高いけどヒョロヒョロで、カーブも投げられずストレートだけ。スピードがあったので登板させてもらったんですが、ケガで本大会のベンチ入りはできませんでした。僕は投げることで精一杯なのに、大輔はどうやってバッターを打ち取ればいいのかがわかっていましたからね。

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