石井丈裕の登板に観客が「えー?」。早実・荒木大輔の控えはツラいよ... (4ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • 岡沢克郎●写真 photo by Okazawa Katsuro

ケガと戦いながらエースとしてチームを引っ張り続けた荒木大輔ケガと戦いながらエースとしてチームを引っ張り続けた荒木大輔

 学校からグラウンドまで電車で移動して、練習をしているうちに暗くなったら終わり。グラウンドを10周走るのが一番キツかったくらいです。練習の量は本当に少なくて、追い込んだ練習は大会前2週間くらいの限られた期間のみ。OBにしごかれるこはありましたけど、授業のある平日の練習は短かったですよ。だから、5回も甲子園に行けて申し訳ないという気持ちもあります。

 僕は早実を卒業後に法政大学、プリンスホテルに進んで、西武ライオンズに入りました。そこで一緒になった選手たちに「いつの練習が一番キツかった?」と聞くと、ほとんどが高校時代と答えました。でも、僕らは全然違ってましたね。
 
 絶対的なエースである荒木を擁した早実は、甲子園に出るたびに優勝候補に挙げられながら、日本一に上り詰めることはできなかった。控え投手だった石井はなかなか甲子園で登板する機会がなく、初めてマウンドに上がったのは3年最後の夏、宇治(京都)との1回戦。大差をつけた後のリリーフだった。

 高校時代、僕は成長期でケガばかりして、ほとんど戦力になりませんでした。3年生になってようやく体ができあがってきて、少し投げられるようになりましたが、早実では貢献できませんでしたね。ストレートのスピードは荒木と同じくらいでしたが、まっすぐしか投げられなかった。
 
 3年の夏の東東京大会で一度だけ先発しました。試合は15-0で勝ちましたけど、プレッシャーはすごかった。大輔に投げさせないで済むように必死で投げました。もし僕のせいで負けたら大変なことだから。

 甲子園で投げたのは1回戦の宇治戦(京都)と最後の池田戦だけ。大輔が打たれて2-7になって僕がマウンドに上がり、7回は抑えたんですが8回に捕まって......。完全にまた池田打線に火をつけてしまいました。そもそも、大輔があれだけ打たれた後に投げるのは嫌でした。彼がストレートとカーブを使っても打たれたのに、僕がストレートだけで抑えられるはずがないですからね。

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