2018.04.21

ライバルが見た荒木大輔の早実は
「何かに守られているように強かった」

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • 岡沢克郎●写真 photo by Okazawa Katsuro

証言で明かす、荒木大輔がいた1980年の高校野球
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証言2 市原勝人

1982年のセンバツで二松学舎を準優勝に導いた市原 1980年夏、「甲子園のアイドル」となった荒木大輔は、高校3年間で5度の甲子園出場を果たした。彼がいた早稲田実業が輝きを放つ陰で、涙を流した東京の高校球児は数えきれない。

 当時の二松学舎大付属のエースで、現在は同校の野球部監督を務める市原勝人もそのひとりだ。東京で負けなしの快進撃を続けた荒木と早実は、ライバルの目にどう映っていたのだろうか。

東京で戦う早実は本当に強かった

 大輔との初対戦は、1980年夏の東東京大会の決勝戦でした。ふたりとも1年生で、早実の先発投手が大輔で、僕は途中から代打で出たんですが、あれだけ落差があってブレーキの鋭いカーブを投げるピッチャーは見たことがなかった。だから、「カーブのいいピッチャーだな」というのが大輔の第一印象でしたね。

 二松学舎は同年の春のセンバツに出ていて、のちにプロ野球に進む西尾利春さん(阪急ブレーブス)、白幡隆宗さん(西武ライオンズなど)といった頼もしい先輩たちがいました。早実は、2年生エースの芳賀誠さんが故障して大輔が投げることになり、無失点で決勝に勝ち上がってきていましたが、先輩たちは「まあ、1年だろ?」と少し甘く見ていました。

 ベンチに入れてもらっていた僕も、「うまくすれば1年の夏から甲子園に行けるぞ」と思っていたんですが……。試合は先制点を取りながら逆転されて、4-10で負けてしまいました。

 甲子園に行けなかった僕たちは、夏休みに静岡県で行なわれた合宿で練習漬けの日々を送ります。きつい練習や強豪チームと練習試合をしている間、早実は勝ち続けていました。監督の車の助手席で、早実の試合をラジオ中継で聞いていたことを思い出します。