旗手怜央がセルティック移籍を決意したきっかけ。東京五輪で「ボールを止めてもつぶされるし、ボールを蹴っても止められる」 (2ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

【川崎で多くを学んだ】

 その差は手が届きそうなところにあったのか、それとも全く届かなそうなところにあったのか――聞けば、旗手は一拍、間を置いて言葉を紡いだ。

「......そこで僕的には今のままでは追いつけないなと思いました」

 具体的にヨーロッパでのプレーを意識したタイミングだった。

「まずは、もっと技術を上げなければいけないと感じました。それは(ボールを)止めて、蹴るという技術だけでなく。ヨーロッパの選手と対戦して感じたのは、ボールをしっかり止めてもつぶされるし、ボールをしっかり蹴っても止められるということでした。だから、技術のなかには判断も含まれていると思うんです。そういったことも含めた、ありとあらゆる技術をもっと向上させていかなければならないと感じました」

 旗手に世界への欲を抱かせたのは、"川崎フロンターレ"という土壌もあった。それは彼の成長曲線を見ても明らかだ。

「出場機会を与えてもらっていましたけど、僕のなかでは常に危機感がありました。この1試合で結果を残せなければ、自分らしいプレーができなければ、もしかしたら次の試合、その先はないかもしれない。フロンターレには、それだけの環境があったから、これだけ成長できたと感じています。試合中に、自分でもこういうプレーができるようになったんだなって思うことばかりでしたから」

 川崎での成長について語り出せば、旗手の言葉は止まらない。

「本当に自分の身体と向き合った2年間でした。それは(三笘)薫や(田中)碧が自分自身の身体にすごく真摯に向き合っていたのと、フィジカルコーチの篠田(洋介)さんのおかげもあります。周りの選手たちのおかげで、自分の身体と向き合い、何がよくて何が悪いのかをものすごく考えた。だから、このチームでなければ、五輪やA代表、ベストイレブンに選ばれることも、J1連覇や(2020年の)天皇杯優勝と、自分に起きたこと、チームの結果も含めて、すべて経験できていなかったと思います」

 同世代だけでなく、先輩たちからはさらに多くのものを吸収した。

「(中村)憲剛さんからは技術だけでなく、選手としての立ち居振る舞いも含め、プロサッカー選手とはどうあるべきかを学びました。(小林)悠さんからは自分が苦しんでいた時に声を掛けてもらったことなど、メンタルの強さとゴールという結果を残すことの重要性を教わりました。あとは......」

 誰かを思い浮かべている気がして続きを待った。

「僕のなかではアキさん(家長昭博)の存在が一番大きかったかもしれません。これは誰にも言っていなかったのですが、今シーズンは試合の局面、局面でボールをキープして時間を作るようなプレーをしていたんですけど、そこはあの人の動きを見て、自分のものにしようと取り組んできたことでした。身体だけでなく、腕の使い方も含め、細かい動きまで観察して、自分のものにしようと盗みました。本人から教えてもらったわけではないのですが、アキさんからは本当に多くを見て学ばせてもらいました」

 彼自身は「誰にも言ったことがない」と明かしてくれたが、川崎のファン・サポーターならば「わかっていた」とうなずいていることだろう。それくらい旗手のプレーは、家長と共鳴していた。

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