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ロンドン五輪マラソン代表のプロランナー・藤原新が振り返る「実業団をやめなければ...」から「ポルシェを売ってふっ切れた」まで

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

2012年の東京マラソンで好走し、同年のロンドン五輪代表の座をつかんだ藤原新さん。だが、2010年のプロ宣言後は困難も多かった photo by AJPS/AFLO SPORT2012年の東京マラソンで好走し、同年のロンドン五輪代表の座をつかんだ藤原新さん。だが、2010年のプロ宣言後は困難も多かった photo by AJPS/AFLO SPORT

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.9

藤原新さん(前編)

 陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。オリンピックの大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。

 そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。最終回となる今回は、当時まだ珍しかった"プロランナー"の肩書きで世間の注目を集め、2012年ロンドン五輪の男子マラソンに出場した藤原新(ふじわら・あらた)さん。

 全2回のインタビュー前編は、マラソンへのこだわり、実業団をやめるに至った理由と、ロンドン五輪出場までの苦労を振り返ってもらった。

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶

【箱根駅伝にはよい思い出がなかった】

 藤原新は、駅伝強豪校の諫早高校(長崎)時代、目標にしていた都大路(全国高校駅伝)を走ることはかなわなかった。合宿期間中だったため、箱根駅伝のテレビ中継もほとんど見ることができなかった。

「高校時代は、情報に乏しい田舎の高校生でした」

 だが、拓殖大学に入学後、世界が変わった。

「都大路を走れなかったので、1年生の時は、箱根はその借りを返す(ための舞台)みたいに考えていました。でも、箱根(第77回大会)の1区を走った時、考えが変わりました。初めての大舞台でめちゃくちゃ緊張しましたけど、沿道に並ぶ多くの人の応援に背中を押されて、『これが箱根か』って気持ちが高まるなか区間10番で走れた。それで一気に箱根(自体に)に気持ちが寄って、頭の中がもう箱根一色になりました。トラックでの個人種目よりも駅伝一本でいこうと決めたんです」

 それは、藤原の持つ競技力とシンクロしたところも大きい。もともとスピ―ドがあり、長い距離も得意で10000m28分台を目標にしていた。だが、箱根に目覚めた藤原は、箱根の距離(20km)を考えて30kmを走るなど、よりロードに特化した練習をこなしていくようになった。

「完全に箱根中心で、箱根で結果を出すために走っていました」

 大学2年時は予選会で敗退したが、大学3年時の第79回大会で箱根駅伝に戻ってくることができた。この時は4区をまかされた。

「3年時は春から故障が続き、練習も積み重ねてきた感じがなかった。箱根の1カ月半前に復帰して、ギリギリでメンバーに入るみたいな状況でした。チームも前回大会で出場を逃していて、以前はシード権獲得が目標だったんですが、その頃から(予選会を突破しての)出場が目標になっていた。この時、僕は区間ひと桁(4位)で走れたんですが、他にそのレベルで走れる選手が少なくて、拓大の弱体化が始まった感じでした」

 藤原は4区4位と好走し、チーム順位を15位から12位に押し上げたが、最終的に総合12位に終わり、シード権を獲得することができなかった。4年時は予選会11位に終わり、藤原の箱根は2度の出場で終わりを告げた。

「結局、箱根にはよい思い出がなかったですね。区間賞を取れなかったですし、シード権も取れなかった。優勝なんて、まったく手が届かないような状況だった。箱根で達成したものがなく、むしろ悔しさを抱えて、次のステージでがんばろうって思っていました。そういう意味では、箱根は文字どおり通過点でしかなかったかなと思います」

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著者プロフィール

  • 佐藤俊

    佐藤俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)、「箱根5区」(徳間書店)など著書多数。近著に「箱根2区」(徳間書店)。

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