ロンドン五輪マラソン代表のプロランナー・藤原新が振り返る「実業団をやめなければ...」から「ポルシェを売ってふっ切れた」まで (2ページ目)
【2度目のマラソンで北京五輪の代表候補に】
拓大を卒業後、2004年4月にJR東日本に入社し、前年に創設したばかりのランニングチームで競技を継続した。駅伝1本の大学時代から社会人になり、藤原がターゲットにしたのがマラソンだった。
「高校時代から、いつかマラソンをやろうと思っていました。実業団に入って、個人種目で結果を求めて走っていたんですけど、それもすべてはマラソンを走るため。すでにスタミナがあったので、最初はスピード重視でやっていこうと考え、5000mは13分45秒、10000mは28分45秒、どちらかが切れたらマラソンに移行しようと決めていました。」
そして、2006年6月、ホクレンディスタンスチャレンジ網走大会の5000mで13分41秒35を出すとマラソンの練習を本格的にスタート。迎えた初マラソンは、2007年3月4日のびわ湖毎日マラソンだった。
「2時間38分37秒(85位)という結構なタイムをたたき出してしまいました(苦笑)。腹痛と足のマメにやられました。当時、シューズは何を履いても関係ないって思っていたので市販のもので、靴下も好みの厚めのものを着用していたんです。レース当日は気温20度くらいあり、靴下が擦れて20kmぐらいでドデカいマメができてしまいました。
それまで、マメで走れない奴は根性なしだと思っていたんですけど、その考え方はあらためました。これは無理だと思い、ヨタヨタ歩きでゴールにたどり着きました」
ただ、結果は出なかったが、藤原は失敗レースとはとらえなかった。腹痛と足のマメさえなければ入賞も狙えたかもしれないという手応えを部分的な成功と考え、次のレースに向けてポジティブに考えたのだ。
次のレースは、北京五輪の代表選考レースになった2008年2月の東京マラソンだった。このレースで藤原は自己ベストを約30分も縮め、2時間8分40秒で日本人トップの2位となり、北京五輪のマラソン代表候補に名乗りを挙げた。わずか1年でここまでタイムを伸ばした裏には"ケガの功名"とも言える出来事があった。
レース前年の11月、藤原はジョグの最中に捻挫をした。もともと足首は硬いほうで、それまでも捻挫をすることはあっても、すぐに走り出せることが多かった。だが、この時は重症で練習を再開できず、元日のニューイヤー駅伝(全日本実業団駅伝)に向けて、ウェイトトレーニング、水泳や加圧トレなど、走る以外のトレーニングをできる限り続けた。
「それから1カ月後に最初のスピード練習をやったんです。(1本)2分50秒の設定で1000m×8本のメニューが意外にもできてしまって。実は足にギプスを装着した際、調子がいい時の足首の感覚に似ているなと感じたんです。それから足首を固めて走ることを意識したら、ずっといい感覚で走れるようになったんです」
ニューイヤー駅伝の3週間前に行なわれた3km×3本のチーム練習で3番になり、2区出走が決まった。藤原は区間8位の走りで順位を25位から12位に押し上げた。
「この走りで『東京、いけるかな』って思いましたね。だから、あの捻挫がなかったら、ここまで走れたかどうかわからない。災い転じて福となすという感じでした」
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