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有森裕子がショックを受けた小出義雄監督のひと言 バルセロナ五輪で銀メダル獲得後に「次は駅伝だ」 (4ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【入院先の病院で気持ちを入れ替えた】

「チームでは誰にも相談できないので、同じような境遇にいた山下(佐知子)さん(京セラ)とよく話をさせてもらいました。この頃は、おかしい、おかしいと思うばかりで、気持ちが非常にネガティブでした。すると、足が痛くなったんです。監督や周囲からは天狗になったとか、お嬢様とか、わがままになっているからだと言われました。私も、自分の気持ちのせいで足が痛くなったのかなと思ったり......。かなり追い込まれていましたね」

 気持ちが晴れないなか、足底筋膜炎が悪化し、走れなくなった。有森は三重県の病院に赴き、手術を受けることを決めた。

「手術してダメだったら仕方がないと思っていました。最初は少し投げやりな感じもあったんですけど、入院している人たちに『有森さん、次の五輪に出るんだよね』と言われたんです。その時、ここで入院している人は、生きていけるかどうかわからない生命の問題を抱えている。でも、私は足が治れば五輪に挑戦できるチャンスをもらえる。挑戦できる以上は頑張ってやっていかないといけないと思ったんです」

 気持ちを入れ替えた有森は、術後、リハビリに入った。日本にいても気が散ると思い、兄がいるニュージーランドに飛んだ。すると、ある日、リクルートのマネージャーが訪ねてきた。

「来て、いきなり『有森、引退するか?』と聞いてきたんです。チームは私に引退を求めていたんだなって思いましたね。でも、『引退はしません。引退しないといけないですか?』と言いました(笑)。その後、帰国して、チームに戻ったんですけど、目標がないと気持ちが切れしまいそうでした。そこで何かレースがないかと調べたら、(1996年アトランタ五輪の五輪選考レースのひとつである)北海道マラソンが一番近い時期にあったんです。五輪選考レースであることはどうでもよくて、それよりもこれを自分の復活レースにしたい。これで走れなかったら引退しようとエントリーをしました」

 この北海道マラソンが有森をアトランタ五輪に導くことになる。

(つづく。文中敬称略)

有森裕子(ありもり・ゆうこ)/1966年生まれ、岡山県岡山市出身。就実高校、日本体育大学を経て、リクルートに入社。1990年に大阪国際女子マラソンで初マラソン日本最高記録(当時)を樹立し、さらに翌1991年の同レースで日本記録(当時)を更新。同年の東京世界陸上で4位入賞。1992年バルセロナ五輪で銀メダルを獲得。その後は故障に悩まされるも、1996年アトランタ五輪で銅メダルを獲得。2007年にプロランナーを引退後は、国内外のマラソン大会等への参加や、『NPO法人ハート・オブ・ゴールド』代表理事として「スポーツを通じて希望と勇気をわかち合う」を目的とした活動を行なっている。また、国際的な社会活動にも取り組んでいる。マラソンの自己最高記録は2時間2639秒(1999年ボストン)。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。

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