本好き・田中希実に文学が与える陸上競技への影響「ラスト1周400mを意識していたのが最後の200mにこだわるようになった」 (2ページ目)

  • 牧野 豊●text by Makino Yutaka

【競技も好みの作品もオープンエンド思考?】

 広く親しまれている作品では『赤毛のアン』(L・M・モンゴメリ 著)、『魔女の宅急便』(角野栄子 著)といった女の子の日常や成長が描かれている作品、また人形のために作ったミニチュアの家を舞台に話が繰り広げられる『引き出しの中の家』(朽木祥 著)、日本の児童文学史を代表する作家である佐藤さとるの作品など、小さいものへの憧憬を喚起する物語は、特に好みだ。

「子どもの頃に小さい人形やミニチュアを集めるのが好きだった影響もあると思うのですが、『引き出しの中の家』は本当に引き出しに入るような小さな人が存在するんじゃないかと思わせるような話です。

 また、佐藤さとるさんの本(コロボックルシリーズが有名)はエンディングらしいエンディングがない展開、オープンエンドという言い方をするのですが、誰が書き継いでもいいという形で終わる。実際、佐藤さんの作品の続きを、作家の有川浩さんが書かれた作品が出ています。

 何か良いものっていうのは、いつまでも残る。最近では音楽やファッションでもレトロなものが流行る傾向にあるように、良いものはずっとなくならないと思っています」

 現在、田中は800m、1500m、5000mという中長距離の複数種目で世界のトップクラスへの階段を上り続けていく中、自身の競技への取り組み方について「自分の可能性、人間の可能性を決めたくない」と最終目標や限界を設けていない。その思考は、まさに「オープンエンド」といえなくもない。

 アスリートとしての活動が中心にあるとはいえ、幼少の頃から好きな児童文学に触れてきたなら、自分自身で本格的な作品を書いてみたいと思わないのだろうか? 田中本人に聞いてみると、そう簡単に割りきれるものではないようだ。

「小さい時は多分書きたかったと思うんですけど、いまは陸上一色になってしまい、子供のころの自分と比べても想像力がないというか夢がないなって思うので、今は書けないと思います。コラムや日記など、自分について文章を書くことは好きですし他の人よりも得意かなと思いますが、想像力を膨らませて何かを書くのは難しいかもしれません。いまは走ることを通してインスピレーションをもらっている分、走ることをしなくなったら、私は本当に何もできないんじゃないかと感じたりもしています」

"走ること"でいえば、陸上競技を題材にした小説にも目を通す。「長距離系のストーリーはだいたい読んでいます」と言うが、競技の参考にしたこともある。

「アスリートが事故に遭い、パラアスリートとして再生していくストーリー『翼がなくても』(中山七里 著)という作品があるのですが、その中でパラアスリートでも健常者と変わらないスプリントに対する感覚を描写したシーンがあったんです。主役は長距離ではなく200mの短距離選手なんですけど、そこにすごく共感して、自分のレースでは、それまでラスト1周(400m)を意識していたのが最後の200mにこだわるようになりました」

 世界で戦う経験を重ねる中、世界のトップ選手がさらにギアを上げるラスト200mで自分の力不足を感じた背景もあった。そんな折、本からヒントを得て競技の取り組みに反映したという。

 つながりがあるようでないような、ないようであるような、陸上競技とエブリデイマジックの世界。

 今後、田中の中でどのようなケミストリー(化学反応)を起こすのか。世界での活躍と合わせて、注目したい。

田中希望インタビュー〉〉〉前編

田中希望インタビュー〉〉〉後編

【Profile】田中希実(たなか・のぞみ)/1999年9月4日、兵庫県生まれ。小野南中→西脇工高(兵庫)→ND28AC→豊田自動織機TC→New Balance。同志社大卒。中学時代から全国大会で活躍し、高校卒業後はクラブチームを拠点に活動。2019年からは父・健智さんのコーチングを受け、今日に至る。国際大会には高校時代から出場を果たし、U20世界陸上3000mで2016年大会8位、2018年優勝。世界陸上は5000mで2019年ドーハ大会から3大会連続出場、2022年オレゴン大会では日本人女子初の800m、1500m、5000mの3種目に出場、2023年ブダペスト大会では5000m8位入賞。東京五輪には1500m、5000mの2種目で代表となり、日本人女子として五輪初出場となった1500mでは予選、準決勝で日本新をマーク、決勝で8位入賞を果たした。自己ベストの1500m3分59秒19(2021年)、3000m8分40秒84、5000m14分29秒18(2023年)はすべて日本記録。

著者プロフィール

  • 牧野 豊

    牧野 豊 (まきの・ゆたか)

    1970年、東京・神田生まれ。上智大卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。複数の専門誌に携わった後、「Jr.バスケットボール・マガジン」「スイミング・マガジン」「陸上競技マガジン」等5誌の編集長を歴任。NFLスーパーボウル、NBAファイナル、アジア大会、各競技の世界選手権のほか、2012年ロンドン、21年東京と夏季五輪2大会を現地取材。229月に退社し、現在はフリーランスのスポーツ専門編集者&ライターとして活動中。

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