「リオ五輪4継リレーでの銀メダル獲得」が走れなかった高瀬慧に与えたダメージ「部屋に閉じこもってテレビも観られなくなった」 (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

 世界陸上で、高瀬は100mで惜しくも予選敗退。200mは準決勝に進んだものの、軽い肉離れを起こし、4継リレーは欠場となった。

「100mと200mに出るには相当なタフさが必要だと聞いたのですが、日本選手権の2種目とは違い、伊東さんはすごいことをしていたのだなと痛感しました。4継は、桐生も山縣も飯塚もいなかったので『自分がやるしかない』という気持ちが強かっただけに、出られなかったのは本当に悔しかったです」

リオ五輪でリザーブも含めいい雰囲気だったと語る4継メンバー(左から高瀬慧、藤光謙司、飯塚翔太)リオ五輪でリザーブも含めいい雰囲気だったと語る4継メンバー(左から高瀬慧、藤光謙司、飯塚翔太) 2012年のロンドン五輪後から2016年のリオデジャネイロ五輪へ向けて、「のびしろを残しながら着々とここまでステップアップできていた」と語る高瀬。2015年は大きな収穫もあったが、五輪シーズンの2月に左膝を痛めて1カ月ほど歩くことすらできず、計画に狂いが出始めた。

 初戦は例年よりも出遅れた5月下旬の東日本実業団となり、日本選手権はすでに派遣設定記録を突破している200mに絞って挑戦。20秒31で飯塚に次ぐ2位で五輪代表入りを決めた。

「日本選手権は条件に恵まれてのタイムでしたが、実際には20秒5~6の調子で『五輪の舞台でファイナリストを目指す』という面では不安がありました」

 いざ、リオ入り後は個人の200mに気持ちが向いていたこともあり、4継のメンバーに選ばれるかどうかについては、気負うことがなかったという。

「チームの雰囲気もすごくよかったです。若いけど経験のあるメンバーが揃っていたし、自分を含めて6人ともフラットな気持ちで集中できていました。僕自身、個人は悪かったけど多分このメンバーのなかで4継の3走を一番速く走れるのは自分だという自信もありました」

 予選のオーダーは1走・山縣亮太(SEIKO)、2走・飯塚翔太(ミズノ)、3走・桐生祥秀(東洋大)、4走・ケンブリッジ飛鳥(ドーム)が選ばれたあと、土江寛裕コーチから「予選の結果次第で決勝は行くかもしれないから頼むぞ」というメールが届いたという。ところが、このメンバーが予選第2組で37秒68のアジア新を出し、2位のタイムで決勝進出が決まった時は「これでもう出番はないなと思った」と振り返る。

 そして、決勝も同じメンバーが走ることになった。

「決勝の前に4人を送り出した時は、『絶対にメダルを獲得するんだろうなぁ』と思ったんですよね。レースは藤光謙司さんや金丸祐三さんと3人だけでバックストレートで見たんです。日本代表の応援席に行かなかったのは、メダルを獲った時に喜べる自信がなかったからかもしれません。

 実際に銀メダルを獲得した時は、『本当にすごい、この4人』と思ってうれしかった反面、『そこに自分がいたら、本当にメダルが獲れたかな』というのを考えたりしました。自分が入ることで、どうなったかを知りたいという気持ちもあって、走ってみたかったなというのはありましたね。レース後に藤光さんと金丸さんと3人で帰りながら、『藤光さんは、このあとどうするんですか』と引退の話をしたのは記憶しています」

 表彰式後に飯塚が、「やりました」と言って選手村の部屋を訪ねてきてメダルを見せてくれた。悔しさはもちろんあったが、チームとして戦ってきたうれしさも感じることができた。

 そのうれしさは本物だったが、それ以上にダメージを受けていたことに帰国後、気がついた。

「寮の部屋に閉じこもってテレビも観られなくなりました。悔しさを消化できていなかったんですよね。(メダリストと)空港での扱いが違うのは慣れていましたが、ひとりになったら急に気持ちが落ち込んでしまって......そんな気持ちが2カ月くらい続きました」

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