箱根駅伝で駒澤大が再び築き始めた黄金時代 継承される「大八木イズム」と戦術眼の正体 (2ページ目)

  • 生島 淳●取材・文 text by Ikushima Jun

【「復路勝負」を着想した理由】

 大八木監督は、往路志向が強かった箱根駅伝の戦術に「復路重視」を持ち込んだ。

 1990年代半ばまで往路、特に1区から3区までが大いに重視された。1987年に日本テレビによるテレビ中継が始まったことで、往路重視が加速した面もある。往路に主力選手を投入して上位をキープし、復路は単独走でも淡々と走れる堅実な選手を並べるのが「定石」だった。

 ところが、大八木監督は違った。往路だけでなく、復路にも人材を残しておく戦術を採った。そうした発想に行きついた経緯をこう話してくれた。

「駒澤を指導し始めて、ああ、学生たちになんとか自信をつけさせてやりたいなあ......そう思って考えついたのが復路優勝。1997年の大会で、しっかり練習を積んだ選手を復路に回したんです。往路には2年生だったエースの藤田敦史(現・監督)を置きましたけど、遅れやしないかとヒヤヒヤものでした。往路をなんとか9位でしのいで、復路は6区から10区まで全員が区間2位で復路優勝。総合では7位でしたけど、学生が喜んでね。『俺たちだって、やればできる』と自信をもってくれたのがうれしかった」

 大八木監督は、盲点をついたのだった。

 この成功体験は、のちの「復路の駒大」まで続いていく。いまも記憶に鮮やかなのは、2008年、6区では首位・早稲田に3分14秒まで差を広げられたが、7区、8区とジワジワと追い上げ、9区に温存していた堺晃一(4年)が早稲田を逆転、そのまま逃げ切って6度目の総合優勝を達成した。大八木監督は、展開予想がピタリとハマったことを喜んでいた。

「山で早稲田に離されて、ちょっとヒヤヒヤしたけど、9区の堺が予定どおりの仕事をしてくれました。いやあ、満足、満足」

 本来なら、堺は往路に起用されてもおかしくない力を持っていた。しかし、大八木監督は総合優勝争いが復路まで持ち込まれることを想定し、堺を温存していたのである。

 2000年代、往路・復路のバランスを重視する大八木監督の戦術眼は冴えわたっていた。

 その後、2020年まで総合優勝から遠ざかってしまったのは、5区の区間延長により、山上りの比重が高くなったことが影響したと思う。柏原竜二(東洋大)に代表されるように、5区で区間賞を獲得した学校が、総合優勝に大きく近づくようになった。

 2010年から2016年までの7年間、駒大は2位と3位を繰り返した。大八木監督の戦術眼に曇りはなく、総合力で劣ることはなかったが、5区の区間距離延長が戦術眼のアドバンテージを消していた。5区が以前の距離のままであれば、この間にも何度か優勝していた可能性はあったと思う。

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